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小説「パンジー」

JUGEMテーマ:趣味

 

うんざりした気分で、天気予報を確認する。

またまた、台風がやってくる。

風対策で玄関回りの植木鉢を家の中に移動させた。

先日の台風で、移動させていたものを元通りの位置に直したところだったのに。

 

まるで、ギリシャ神話に出てくるシシュポスに課せられた刑罰。

その刑罰とは山に大きな岩石を押し上げ、頂上まで届くとその石は転げ落ちて、シシュポスはまたそれを押し上げねばならないというものだ。

同じ行為を繰り返すほどツライ刑罰は無いそうだ。

 

そろそろ、台風もご勘弁願いたいものだ。

 

今年の3月頃、短編小説を書いた。

何度か書きなおそうと思っていたが、今回、ブログにアップすることにした。

ちょっと長いので、今週は前編だけアップします。

 

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

小説「パンジー」(前編)

 

足早に通り過ぎようとする男に、突然直美は声を掛けた。

「坪倉くん」

男は立ち止り、ふり返った。

直美の顔を見て、首を傾げた。

「ヒデちゃんだよね」と、再び直美が言った。

男はすぐに「なんだ、小坂さんか」と応え、微笑んだ。

そして、人の流れを気にしながら、良平たちの方へ近づいてきた。

「久しぶりだね」と男は白い歯を見せて、直美に言った。

「本当に久しぶりね。卒業以来かしら」

「そうか、卒業以来か。5年ぶりかな。直ちゃん、変わらないね」

そう言うと、男は隣で子どもを抱いている良平に視線を移した。

すると、直美は「あぁ、主人です。子供は8カ月の長男よ」と、慌てて良平と亮輔を紹介した。

「滝本です」と言って、良平は軽く頭を下げた。

男も「坪倉です」とはにかむように頭を下げ、良平に抱かれて眠っている亮輔を見て、「そうか、直ちゃんもお母さんになったんだ」と笑顔を見せた。

「そうなのよ。当時のように自由気ままな大学生ではないのよね」

直美と男は通行人の流れを避けて、歩道の横に寄った。

「坪倉君は今何してるのよ?」

「今はね、小さな雑誌社でカメラマンのようなことをしてる」

ふたりの会話が続きそうなので、良平はふたりの立っている位置から離れ、スポーツ店のショーウィンドウの前に立った。

ウィンドウ内に陳列されているゴルフウェアやテニスウェアを着たマネキンをぼんやりと眺めていた。

しばらくすると、直美の手が良平の肩に触れた。

「美大の時の友達よ。カメラが好きな人だったけど、やっぱり写真関係の仕事をしているんだって」

直美はひとりごとのように言って、眠っている亮輔の頭を撫ぜた。

「秋ごろ、同窓会を企画しているんだって」と言った後、「秋だったら、行けそうにないわね」と続けて、自分の腹部を撫ぜるしぐさを見せた。

二人目の子供の出産予定日は10月下旬だった。

良平は男が去った方向を見つめた。

春の風に揺れている街路樹の向こうに、横断歩道を渡っていく男の姿が見えた。

男の背中のリュックから、カメラの三脚がはみ出していた。

 

**************************

 

女学生は珈琲カップを口に運ぶ時、少し微笑んだ。

上唇の近くに、小さなホクロが目についた。

僕は百貨店の従業員食堂にある喫茶ルームにいた。

「そうなんだ。キャロル・キングが好きなんだ」と、女学生は目を輝かせた。

女学生は僕と同じ階の売り場で働いていた。

 

その2日前、食堂で昼食を食べている時、テーブルの斜め前に座っていたその女学生から突然声を掛けられた。

「あなた、どこの大学生?」

唐突な質問に、僕は躊躇いながらも大学名を伝えた。

「そうなんだ、京都の大学なんだ」

女学生は頷きながら、阿村浪江と自分の名前を言った。

 

僕は紳士靴の特売場で、働いていた。

学生相談所で見つけた短期のアルバイトだった。

売り場が同じ階なので、浪江は僕が紳士靴の特売場にいるのを知っていたと話した。

浪江は大阪の大学に通っていた。

実家は徳島で、大学の近くに下宿していると言った。

僕と同じ卒業間近の4回生だった。

 

食事を済ませた後、僕が喫茶ルームに誘った。

「私も<タペストリー>は良く聴いているのよ」

浪江は音楽の話をしていた時、キャロル・キングのアルバム名を口にした。

そして、ビートルズや吉田拓郎など、僕が好きなミュージシャンたちのレコードをよく聴いているとも言った。

二人で紅茶を飲みながら、映画や本の話でも盛り上がった。

 

その後も昼休みになると、喫茶ルームで会った。

1週間のバイト期間が終わろうとしていた。

浪江も短期のアルバイトなので、僕と同じ日にバイト期間が終了する。

別れれば、もう二度と会う機会はない。

「下宿の電話、教えてくれないか?」

僕は勇気を出して、浪江に言った。

すると、ためらうこともなく浪江は手帳の切れ端に電話番号を書いて、僕に手渡した。

浪江も好意を持っている、と僕は感じた。

僕は電話番号を書いた紙を二つ折りにして、上着のポケットに入れた。

 

「きっと、連絡くださいね」

アルバイトを終えて百貨店の従業員口を出る時、浪江は片手を高く上げて手を振った。

「必ず、電話するよ」と、僕は笑顔で応えた。

 

帰りの電車の中、ポケットにあるはずの紙が無くなっているのに気付いた。

地下鉄の乗車券と一緒に入れたはずだが、乗車券を取り出す時に落としてしまったようだ。

浪江に連絡を取る手段を失くしてしまった。

折角彼女が出来るチャンスだったのに…。

残念だと思ったのも束の間で、卒業論文の制作や卒業旅行など学生生活最後の時を慌ただしく過ごす中、その記憶は消えてしまった。

 

それから数ヵ月後、僕は大学を卒業し社会人になった。

 

昭和50年4月、僕は広告代理店のK社に就職した。

その頃、伝説のロックバンドキャロルが解散し、ベトナム戦争が終わった。

会社は主にK電車の広告を扱う、従業員50人程の小さな会社だった。

僕は営業に配属され、沿線の会社に交通広告を販売して歩いた。

就職して3年後、小坂直美が事務員として入社した。

直美は大学を卒業したばかりで、愛らしいほどの初々しさが感じられた。

実家は奈良で、両親は土産物屋を営んでいた。

いつしか、お互いが惹かれるようになり、交際が始まった。

2年間の交際を経て、僕たちは結婚した。

 

東京ディズニーランドが開園し、ドラマ「おしん」がブームになった昭和58年、長男亮輔が生まれた。

その年、両親の資金援助を受けて、H電鉄沿線に一戸建ての住宅を買った。

2年後に、長女沙代子が生まれた。

日本は好景気の中にあり、株や土地価格が高騰した。

会社は順調に業績を伸ばし、その勢いに押されるかのように僕の営業成績も上がっていった。

そして、営業主任に昇格した。

 

クリスマスが近づいたある日、会社の忘年会がK駅の居酒屋平六亭で行われた。

宴会は盛り上がり、僕は上司や同僚社員から注がれるままに杯を重ね、かなり酔っぱらっていた。

2次会に誘われ、上司の奥村係長と同僚数人でスナック「コスモス」へ行った。

「コスモス」は係長馴染みの店だった。

僕はここでも水割りを3杯飲んだ。

そして、酩酊した僕の記憶はスナックを出たところから薄れていった。

 

「大丈夫ですか」

男の声で、僕は目が覚ました。

駅の階段下で倒れている僕に、駅員が声を掛けたのだ。

階段を踏み外したようだが、全くその記憶がない。

背広はどこも汚れていないし、身体のどこにも異常を感じなかった。

駅員に礼を言って、いつもの帰り道を急いだ。

歩いて20分、家の前までたどり着いた。

ポケットから鍵を取り出し、玄関ドアを開けた。

リビングに入って明かりを付ける。

壁に掛かった時計の針は午前13時を指していた。

「うん?」

部屋の雰囲気に違和感を覚えた。

まだ、酔いが覚めていないのだろうと思いかえした。

水を1杯のみ、2階の寝室に入る。

妻の寝息が聞こえる。

僕は寝巻に着替え、ツインベッドにもぐりこんだ。

 

翌朝、肩を揺さぶられて、僕は目覚めた。

「早く起きないと、会社へ遅れるよ」という妻の顔を見て、僕は驚いた。

見知らぬ女が立っていた。

女は驚いている僕の顔を見て、不審そうに首をひねった。

そして、「寝ぼけないでよ」と言って、部屋を出て行った。

僕は起き上がり、頭を振った。

家を間違えたと思い、昨日のスーツを着て、カバンを持って階段を下りる。

リビングに入ると、さらに驚いた。

さっきの女と、見知らぬふたりの女の子が食事しているのだ。

「お父さん、おはよう」と、女の子たちは僕の顔を見て言う。

呆然と立っている僕に、「早く食べないと、遅れるよ」と女が言う。

妻の直美と亮輔、沙代子はどこにいったのだろう。

「あのぉ、僕、家を間違ったようで…」というと、みんなが不審そうな顔を向ける。

「あなた、朝からどうしたの。ふざけないでよ」と女が言い、女の子たちも「お父さん、変になっちゃった」と口を揃える。

僕は状況が全く理解出来ず、仕方なく苦笑いを見せた。

もう酔いは完全に覚めているはず…。

食卓にはこんがり焼けた食パンと目玉焼きの皿が置かれている。

女とふたりの少女が不思議そうな眼で、僕を見つめている。

僕は気まずくなって、「えっと、どうなっているのかな。とにかく、出かけます」と呟くように言って、慌てて外へ出た。

「どうしたのよ」と、後ろから女の声が聞こえ、「お父さん、いってらっしゃい」と叫ぶ女の子の声が続いた。

 

玄関を出て数メートル歩いたところで、振り返る。

外から眺める戸建ては確かに僕の家だった。

だが、花が好きな直美の鉢植えがなかったし、いつも掛かっている玄関ドアのリースが無い。

近所の家並みも同じだったが、少し様相が違っているようにも感じる。

歩き慣れた駅までの道をゆっくりと歩く。

いつもどおりにH電車のM駅から普通電車に乗り、ぼんやり車窓に流れる景色を眺めた。

風景はいつもと変わりないのだが、ところどころで建物や家並みがいつもと違うようにも感じられる。

背広の内ポケットから手帳を取り出した。

それは今まで使っていたものとは違っていた。

ページをめくると、見慣れた僕の字体が並んでいる。

だが、書かれているスケジュールに、全く記憶がない。

昨日の予定には<忘年会>と書かれている。

確かに昨日は忘年会だった。

二次会まで参加して飲み過ぎたのは覚えている。

 

電車がU駅に到着して、地下鉄に乗り換えた。

地下鉄の二つ目のY駅で降りて5分程歩くと、会社が入居している複合ビルがある。

エレベーターで3階まで上がり、事務所に入った。

やはり、ここも昨日までの事務所とは違っている。

始業時間9時の15分前だったが、数人の社員が出勤している。

「おはよう」

僕は営業で部下の川辺に声を掛けた。

すると、「あれから、無事に帰れましたか?」と、川辺は笑いながら言う。

「かなり、飲んではりましたね。ふらふらでしたよ」

「かなり呑んだみたいやなぁ」と僕は曖昧に返事をしながら、川辺からそれとなく昨日の宴会の様子を探った。

「なんだ、主任、覚えてないんですか」と言いながら、共に二次会に参加していた川辺は、その時の様子を思い出しながら話す。

その話を聞きながら、僕はどうも変だと感じた。

二次会の場所が昨日と違っている。

忘年会の「平六亭」は合っているが、二次会は「コスモス」というスナックで呑んだはずだが、川辺は加藤部長馴染みのスナック「真珠のなみだ」に行ったというのだ。

 

違和感を覚えながらも、僕は自分のデスクに座って、いつもどおりの仕事を始める。

しばらくして事務所内を見渡すと、見慣れない社員がいた。

所内を見回して、他の社員を確かめてみる。

いつもの見慣れた社員たちが動き回っている。

だが、ふたりだけ知らない社員が目についた。

机に貼ってある座席表で確かめると、営業担当の田賀と手配担当の杉岡と書いてある。

「おい、最近新しい社員が入ったか?」と、隣に座っている部下の足立に訊く。

「ええっ、誰のことですか?」

足立は不審げな表情で、「去年から新人なんて、入社してないじゃないですか」と、回りを見る。

そして、「どうしたんですか?」と、再び僕の顔を凝視する。

僕はその視線に気まずさを感じて、「ああ、そう、そうだったな。いや、ちょっと気になって」と、慌てて話を打ち切った。

 

その時、事務の女子社員が「滝本主任、ご自宅からお電話です」と、電話を取り次ぐ。

受話器を取ると、「あなた、大丈夫?」と女の声が聞こえてくる。

今朝、家にいた女だ。

「なんか、変な感じだったから。よその家にいるみたいなことを言うものだから…。心配になったのよ。頭がおかしくなったんじゃないかと思ったわ。疲れてるんじゃないの?」

女は朝の僕の態度が気になって、電話を掛けたようだ。

僕は「昨日、飲み過ぎたんで、調子が悪かったからだろう。すまない。心配はいらないから」と、その場を取り繕った。

「それなら、良いんだけど。気を付けてね」と、女は納得した様子で電話を切った。

確かに、何か変だ。

何かが狂っている。

頭が変になったのだろうか。

 

僕は労務担当亀井の席に行って、社員の社会保険の資料を見せてくれるように言った。

亀井はファイルを出してきて、僕の家族の書類を机に置いた。

配偶者のところに、「滝本浪江」とあり、扶養家族には「長女昌枝」「次女洵子」となっている。

直美や長男亮輔、長女沙代子の名前はどこにもない。

「浪江」という名前を見て、小さな記憶の欠片が脳の中で次第に大きくなってくる。

今朝見た、女の顔を思い出す。

アルバイト先で知り合った女学生に似ているような…。

そういえば、浪江のような名前だった。

でも、なぜ今、僕の妻になっているのか。

 

訳が分からない状態の中で、僕は出来るだけ平常心を装い、いつも通り仕事をする。

だが、ところどころでくい違いが生じる。

昨日まで仕事をしていたクライアントが他の営業担当の受け持ちになっていたり、社内での打ち合わせの日が違っていたり…。

僕は報告書類や手帳を確認しながら、何とかその場を取り繕って業務を続けた。

だが、田賀という営業係長に声を掛けられた時は困った。

僕は全く田賀係長という人物に記憶がないのだ。

僕とは別の営業グループの責任者のようだ。

親しそうに声を掛けてくる。

だが、僕が戸惑ったリアクションをすると、「どうしたんだ?」と、不思議そうな表情を見せた。

 

別世界にいるような、不思議な一日が終わった。

会社を出て、駅近くの喫茶店に入った。

混乱した気持ちを整理したかった。

「あれ、滝本さん、珍しいですね。夕方に来るなんて」

初めて入った店だと思ったのに、ウェイトレスが親しそうに声を掛けてくる。

「ああ、こんにちは。珈琲をください」と、素っ気なく小声で答える。

そのウェイトレスなんて、知らないのだ。

しばらくすると、ウェイトレスは「珈琲とは珍しいですね。いつも紅茶なのに」と言って、テーブルに珈琲カップを置いた。

僕は苦笑いして黙っていると、ウェイトレスは「ごゆっくり」と言って、カウンターの方へ戻っていった。

珈琲を啜った。

元々、僕は紅茶党だったが、直美と結婚してから珈琲好きになった。

日に4,5杯の珈琲を飲む直美に影響されて、僕は珈琲党に変わったのだった。

それにしても、何かが変だ。

妻の直美が浪江という女にかわって、男と女だった子どもたちもふたりの女の子に変わっている。

家庭もおかしいし、会社もおかしい。

知らない社員がいたり、仕事も昨日とは少しずつ違っている。

僕の頭はどうかしてしまったのだろうか。

それとも、精神病を患ってしまったのだろうか。

昨夜、二次会の帰り道から記憶がない。

駅で転んだようだ。

転んだにしてはどこも痛くなかった。

その辺りから、身の回りの雰囲気がおかしくなった。

妻になった浪江のことは考えた。

「そうだ、確かにそうだ」

百貨店でアルバイトした時に知り合った女学生だ。

なぜ、直美に変わって浪江という女が僕の妻なのか。

珈琲を飲みながら記憶を辿るが、思考は堂々巡りするばかりだった。

 

「すみません。ちょっと変なことを訊くんやけど。前回僕がここへ来たのはいつだったっけ?きみ、覚えているかな?僕は誰と一緒に来たのかな?」

レジで支払う時に、僕はウェイトレスに尋ねてみた。

ウェイトレスは少し考えてから、3日前の朝、田賀さんや長坂さんらと来店したという。

田賀は今日話した営業課長で、知らない人だ。
長坂は良く知っている。

入社5年目の営業社員で、帰る方向が一緒なので何度も立ち呑みに行ったりしている。

 

喫茶店を出て、僕はK電車に乗りK駅で降りた。

昨日二次会で行ったスナック「コスモス」を訪ねてみようと思った。
酔いつぶれた後のことを知りたかった。

「コスモス」は奥村係長の馴染みの店で、昨日髭を生やしたマスターを紹介された。

駅近くの商業ビルの2階にあった。

僕はビルの看板を見上げたが、「コスモス」の店名が見当たらない。

階段で2階に上がり、「コスモス」のあった場所の前まで来たが、店名はスナック「チエミ」になっている。

開店しているようなので、僕はドアを開けた。

「いらっしゃいませ」と、カウンターの中にいる女性が顔を向けた。

「このビルでコスモスという店を知りませんか?」と、僕は女性に尋ねた。

その女性によると、「コスモス」は1年前に退店して、その後に女性がこのスナック「チエミ」を開店したという。

やはり、営業の川辺が言っていたように、昨日の二次会は加藤部長馴染みのスナック「真珠のなみだ」に行ったということなのだろうか。

僕にはスナック「真珠のなみだ」に行った記憶はないし、その場所も知らないのだ。

どういうことなんだろう。

僕は憂鬱な気分を引きずりながら、ネオン街を通りぬけK駅まで歩いた。

 

自宅の最寄り駅、H電車のM駅に着いた。

僕は駅務室のドアを開けた。

昨日、階段下で倒れている僕に声を掛けた駅員が机に座っていた。

駅員は書類から顔を上げ、「大丈夫でしたか?」と言って微笑む。
駅員は昨日のことを覚えていた。

「すみません。昨日ことですが、私はどんな風に階段から落ちたんでしょうか?」

僕は駅員に尋ねたが、駅員は階段の下で倒れているのを見つけただけで、落ちるところは見てないと答える。

僕の記憶はスナックから出たところまでだ。

その次の記憶は階段で倒れているところだった。

その間、何かが変わってしまった。

 

M駅から自宅までの道を歩く。

やはり、家には浪江という女と、二人の女の子がいるのだろうか。

直美や亮輔、沙代子はどうしてしまったのだろうか。

僕は憂鬱な気分で、家路を歩いた。

家の前までやってきた。

ゆっくり、2階建ての我が家を眺める。

玄関横のガレージに車が停まっている。

今朝は確認していなかったが、明らかに僕の車ではない。

車好きの直美がSUVのパジェロという車が気に入って、昨年の11月に買ったはず。

だが、ガレージに置かれているのはカローラなのだ。

 

僕は玄関ドアを開けて、恐る恐る小さな声で「ただいま」と言った。

「パパ、お帰りなさい」と、女の子がリビングから出てきて、僕を迎えた。

僕にはふたりの女の子がいることを、会社で確かめた。

次女の洵子だろうかと思いながら、もう一度「ただいま」とその子に言って、リビングに入った。

ダイニングテーブルの向こうに、会社の社会保険資料に配偶者と書かれていた浪江が台所にいる。

迎えた女の子よりも少し大きい少女がリビングのソファに座って、テレビを観ている。

長女の昌枝だ。

「お父さん、大丈夫?ママが心配してたよ」と、昌枝が僕にいう。

僕は「大丈夫だよ」と、ぎこちない口調で答える。

「あなた、心配してたのよ。本当に大丈夫?」と言いながら、浪江が台所から食卓に料理を運ぶ。

「ああっ、何とか。ちょっと、昨日は飲み過ぎたみたいだ」と、僕は浮ついた言葉で会話を繋いだ。

「今朝、家を間違ったとか何とかいうもんだから、びっくりしたわよ。頭が変になったんじゃないかと。若くてもボケる人がいるって言うから…」

僕は「すまない」と応え、すぐに「風呂に入るよ」と続けた。

身に覚えのない家庭の雰囲気から逃れようと、風呂場に向かった。

家の間取りは変わりないのだが、置いてある調度品などが違っている。

 

湯船に浸かりながら、僕は考える。

この現実は夢じゃない。

僕は正気だ。

僕自身の脳が狂っているという意識は全く感じない。

家族が僕を騙している様子でもない。

とにかく元に戻るのを期待して、今はこの現実を受け止めるしかしょうがない。

 

浪江はあの時の女学生に違いない。

「学生の頃、キャロル・キングの<タペストリー>をよく聴いていたと言ってたよな。」

夕食を終えた僕は百貨店での会話を思い出しながら、浪江に話した。

食器を洗い終えた浪江は「かなり昔の話だわね」と言いながらも、「あなたとは音楽の趣味が合ったものね」と、遠くを見つめるしぐさを見せる。

上唇の近くに、小さなホクロが目に付いた。

そこで、僕は「君が電話番号の書いた紙をくれたな。それからどうなったんだっけ?」と、思いだすふりをしながら、探ってみる。

「あなた、覚えてないの?何日か後に電話してくれたのよ」と、ダイニングテーブルを拭きながら答える。

確か、あの時、僕は電話番号の書いた紙を落としてしまった。

だから、浪江に連絡することが出来なかったのだ。

それで、僕たちの関係はそれで終わってしまったはず。

ところが、あれから15年経った今、突然浪江は僕の前に現れた。

僕たちは結婚して、家庭を築き、二人の子供を育てていることになっている。

これはどういうことなんだ。

 

過去の僕がどんな風に暮していたのかを、浪江や子どもたちとの日常会話の中で観察する。

身に覚えの無い過去を、さも自分の行動であったようにと振る舞うのは難しい。

時折、妻や子供たちが僕の言葉を変に思うこともあった。

「あれ、お父さん、それ先週言ったよ。もう忘れたの?」と子供たちに言われたり、「あなた、しっかりしてよ。前にも言ったじゃない」と、浪江から不思議がられることもあった。

僕にとって、全く身に覚えの無い暮らしに放り出されたのだから、それも仕方が無いことだ。

だが、浪江は時折「あなた、最近、おかしいよ。病院でも行って、頭の中を調べてもらったほうが良いんじゃない」と言って、今までと違った夫の言動に違和感を覚えている様子だった。

 

僕と違った僕の暮らしを、家庭内に落ちている足跡で想像する。

アルバムの写真や過去の手帳などをそっと観察して、これまでの浪江との結婚生活や子供の成長の記録を辿ってみる。

写真には確かに僕が写っている。

結婚式では浪江とケーキ入刀をし、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている。

ほんの1週間前の写真では二人の子供とどこかの遊園地で、メリーゴーランドに乗っている。

身に覚えの無い過去だが、写っているのは確かに僕だ。

 

家庭内での僕は徐々にその生活に慣れてきた。

いや、慣れようと努めた。

妻の直美が浪江に代わり、長男の亮輔や長女の沙代子が昌枝や洵子に入れ代わってしまったが、今の僕はその現実を受け入れるしかなかった。

いつか何かの拍子に、また元の生活に戻れるだろうと信じていた。

 

だが、家庭よりもっと多くの時間を費やす会社内では様々な祖語が生じる。

身に覚えの無い得意先が存在していたり、やった記憶もない仕事が記録に残されていたり。

会社での仕事は報告書や実績表などに記録されているので、それらを丹念に辿っていくと、僕でない僕の仕事がかなりはっきりと見えてくる。

引き継ぎされない前任者の仕事を突然引き継ぐようなものだった。

だから、ところどころで他の社員との行き違いがあった。

すると、僕に向ける社員たちの視線が変わってくる。

「こんなに忘れっぽい人だったのか」とか、「頭が変になったんじゃないか」と、陰で噂をされているようにも感じた。

 

一週間ほど経ったある日、営業責任者の足立課長から会議室に呼ばれた。

「滝本君、君疲れているのか」と、足立課長が切り出した。

「最近、君の行動がおかしいという社員がいるんだが…」

静かな室内に、太り気味の課長の低い声が響く。

足立課長は僕の仕事上のミスが多いと指摘し、社員たちが病気ではないかと心配しているという。

「急に忘れっぽくなったという人がいるんだが、どうなんだ?」

自分に起こった生活の変化をいきなり説明しても、とても理解してもらえないだろう。

「ミスが多いことは自覚しています。ちょっと疲れているのかもしれません。とりあえず、病院へ行ってみますから」と、その場を取り繕った。

「ご心配なく。もう少し、時間をください」と、僕は課長を安心させようと続けた。

「滝本君は営業1課では大きな戦力なんだから、しっかりと自己管理をして、頑張ってもらわないと」と、足立課長は感情を押し殺したように静かに言葉を並べ、ゆっくりと席を立った。

 

その日の夕方、帰り支度をしていると、奥村係長が僕の席に近づいてきた。

いつもの強いポマードの香りが鼻に付いた。

奥村係長は僕の入社時の指導員で、いつも仕事の相談相手になってくれる上司だった。

「帰りにちょっと、居酒屋へ行かないか」と、誘われた。

隣のビル地下にある、洋風の居酒屋は勤め帰りのサラリーマンで賑わっていた。

一番奥の4人席に座り、ビールジョッキを合わせた。

開口一番、「身体は大丈夫?最近社内で、元気がないって、言われているようだが…」と、奥村係長が言う。

<やっぱり、その話か>と僕は思いながら、「今日、加藤課長に会議室で注意されました」と返す。

この1週間、僕の様子が少し変だと、奥村係長も感じているようだ。

何度か仕事のことで言葉を交わすことがあったが、会話中のくい違いが時々あった。

あの時以来、僕にとって世間の様子が置き換わってしまったのだから、その変化に対応できない。

大きなところで違っていなくても、細かいところでは全く記憶にないことが出現するのだ。

僕は自分の脳に異常があると思われたくないため、何とかやり過ごしているのだ。

当然、僕自身、自分の脳ミソがおかしくなったなんて、自覚は全くないのだ。

奥村係長は部下思いのやさしい上司だ。

今日は僕の異常な変化を心配して、居酒屋へ誘ってくれたのだ。

しばらく飲んでいると、田賀係長と川辺君が揃ってやってきた。

奥村係長が誘ったようだ。

4人は世間話をしながら、杯を重ねた。

ビールから日本酒やチュウハイに替った。

僕はもうひとつ話に加われなかった。

奥村係長は僕が入社当時から会社にいたし、川辺君が入社したときのことは良く知っている。

だが、田賀係長という人物を知らない。

忘年会の翌日以降、突然僕の前に現れた人なのだ。

それは家族が変わってしまったと同じだ。

4人で仕事の話になり、田賀係長が話に加わってくると、全く自分の記憶にない話題になってしまう。

「あの時は困ったよな、滝本君にも何度か納品を手伝ってもらったよな」と、田賀係長が以前の仕事のトラブルを話す時、僕は答えるのに窮してしまう。

「はぁ、そんなこともありましたね」と、曖昧な返事をする。

僕には全く記憶にない話なのだから、そう答えるしかなかった。

正直に今の僕の状態を説明したとしても、僕の頭がおかしくなったとしか思わないだろう。

とにかく、今を無難に切り抜けることしかない。

その内、この状態が1週間前の元の状態に戻っていることを望むしかない。

 

2時間程飲んで、お開きになった。

奥村係長と川辺君は同じK電車沿線なので、南行きの地下鉄に乗って帰った。

田賀係長はH電車沿線のT駅というので、U駅まで一緒に北行きの地下鉄に乗った。

「滝本君、もう少し飲まないか」

U駅に着くと、田賀係長が僕を誘った。

会話がかみ合わないのが不安なので僕は戸惑ったが、やむを得ず付いて行った。
H電車のU駅近くのショットバーに入った。

薄暗い店内はサラリーマンで賑わっていた。

二人掛けの丸テーブルに座って、水割りを注文した。

「この店、何度か来たことがあるのを覚えているか?」と、田賀係長が訊く。

僕にとっては初めての店だった。

「ええ、何となく…」と、曖昧に返事をした。

「覚えていないのか。2週間前に、この店に来たことを」

田賀係長は不思議な表情を浮かべ、じっと僕の顔を見る。

「もともと、最初にこの店を紹介してくれたのは君だよ」

僕にはその記憶がない。

そもそも、田賀という人物さえ知らないのだ。

「最近の滝本君はおかしいと思うんだ。仕事ではいろんなところで食い違うし、忘れていることが多い。それより、こうして話していると、どうもしっくりといかない。明らかに、以前の君と違うんだよ。」

田賀係長は水割りのグラスに口を付けた。

「僕は君が心配なんだよ。滝本君は最近の自分自身のことをどう感じているの?」

僕は黙ったまま、俯いた。

返す言葉が見つからない。

心の中にあるものをぶつけたら、どんなに楽だろう。

だが、今の僕の状態を伝えても、バカにされるに違いないのだ。

突然、世界が変わってしまったと言って、誰が信じてくれるだろう。

精神病院へ行くように勧められるだけだ。

「滝本君、僕のことを知らないじゃないか」

田賀係長が強い調子で言った。

「僕を知らないというより、君の記憶の中に僕は存在しないのじゃないか?」

静かなジャズピアノのメロディが店内に流れている。

「滝本君、良かったら正直に言ってくれないか。君はどうも変だ。なにが起きたの?」

田賀係長は僕の顔を覗き込むようにして言う。

僕の感情が心の器から吹きこぼれた。

「係長、信じてもらえないかもしれないけど、変になってしまったんです。どうしてしまったのか、全く解らないんです」

僕はそういうと、1週間前からの出来事をありのまま伝えた。

 

係長は真剣な表情で、時折頷きながら僕の話を聞いていた。

「こんな話って、信じてもらえないですよね。家族が突然入れ代わったり、会社の様子が違ってしまうなんて…」

僕は話し終えると、氷が解けて薄くなったウィスキーを一気に飲んだ。

女性たちが乾杯する声が店の奥から聞こえてきた。

田賀係長は「そうか」と呟いて、しばらく考えていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

 

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 

今日はここまでです。

 

滝本良平がなぜこんなことになってしまったのか。

来週、小説「パンジー」の後編をアップいたします。

 

author:金ブン, category:読書, 10:17
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