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知ろうとしないことは存在しない
JUGEMテーマ:映画
一度だけ、万引きをしたことがある。
盗んだのは本だった。
田山力哉の「海外の映画作家たち」
40年以上前のことだが、本の名前もはっきりと覚えている。
 
大学の授業が終わり、河原町にある駸々堂書店に立ち寄った。
ブルーの表紙カバーの本は奥の方の棚に並んでいた。
その頃、私はヌーベル・バーグといわれるフランス映画や新進映画監督が活躍するイタリヤ映画をよく観ていた。
難解な映画が多かったが、私は背伸びをしながら観ていた。
ほとんど、理解していなかっただろうが、その雰囲気が好きで映画館に通っていた。
著者の田山力哉は辛口の映画評論家として名前が売れていた。
本の内容は当時人気があった映画監督たちの私生活を描きながら、創作の秘密を迫ろうとするものだった。
 
少し立ち読みしていた私は買う気になっていた。
本を裏返し、値段を見る。
当時の私のバイト料からすると、かなり高かった。
店内には多数の客がいたが、専門書が並ぶ本棚付近には私ひとりだった。
どこからも死角になっていた。
魔が差すとは便利な言葉だ。
こういう時に使うと、悪意が無かったようになってしまう。
万引きに言い訳なんて通用しない。
ただ、財布から出すお金がもったいなかっただけだった。
私はそっと、本をカバンに忍び込ませた。
そして、そのまま出口に向かい、通りに出た。
あっけなかった。
罪悪感が全くなく、悪事をやり終えた安堵感しかなかった。
 
それから何日かして、私は万引きで捕まっている学生を見た。
下宿近く、元田中にある古本屋だった。
その学生は交差点の真ん中で、店主に追いかけられて捕まっていた。
衆人環視の中、店主に腕をつかまれて引き連れられていた。
うな垂れた学生は引き回しの刑を受ける罪人のように、惨めな姿をさらしていた。
(都合の良い言い方をすれば、)万引きをした私を見た神様が私にこの光景を見せたのだろう。
万引きの経験はそれが最初で最後だった。
 
京都の一乗寺に、「京一会館」という映画館があった。
遠い昔、ヌーベル・バーグの難解な映画を、4本立てで公開していた。
ヌーベル・バーグとはフランス語の<新しい波>のことで、1950年代から60年代にかけて、フランスで起こった映画運動を指す。
代表的な作品に、ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ!」、フランソワ・トリュフォの「大人は判ってくれない」、アラン・レネの「去年マリエンバードで」などがある。
ゴダールの映画は難解で、観ていた私はほとんど理解出来なかった。
それなのに、何度も足を運んだ。(大学の1回生で暇だったこともあるが)
難解な映画を観ないと、映画通とは言えないのではないかと錯覚していたのだろう。
それでも、苦労知らずでまだケツの青い学生だった私は、フランス語のセリフが醸し出す雰囲気に大人の世界を感じていた。
 
同じ時期、イタリヤでも傑出した映画監督が出ていた。
ミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ…。
興行的に観客動員は望めなかったにも関わらず、「京一会館」ではそれらの監督の映画を頻繁に上映していた。
その中でも特に奇異で難解な映画だったのが、ピエル・パオロ・パゾリーニの監督作品だった。
「テオレマ」「王女メディア」「豚小屋」など。
 
そして、「アポロンの地獄」。
ソフォクレスのギリシャ悲劇『オイディプス王』を題材にした映画だ。
青年オイディプスは、母と交わり父を殺すであろう、という予言を受ける。
その運命を恐れたオイディプスは、故郷を捨て荒野をさまよっているうちにライオス王と出会う。
そのライオス王がオイディプスの真の父親であるのだが、そうとは知らずライオス王を殺し、母イオカステと結ばれる。
自身の運命を嘆き、オイディプスは両目をくりぬく。
 
<知ろうとすることは存在し、
知ろうとしないことは存在しない。
お前はお前自身を知らない>
 
ラストシーンで、このテロップが登場する。
映画の中では、知らぬがゆえに父親を殺害し母親と交わってしまう運命を表した言葉なのだが、どこか意味深だ。
現代の何かに訴えているような言葉にも思えてくる。
戒めでもあり、警告でもあるような…。
 
以後、その言葉は時々脳の片隅からひょっこりと現れてくる。
先日私は、この言葉を端的に表している出来事に遭遇した。
 
その内容については、来週書いてみたい。
author:金ブン, category:映画鑑賞, 06:36
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