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スポーツ障害

JUGEMテーマ:日記・一般

 

<梅さんこと梅塚英吾は、二年前の試合で脊髄を損傷し、首から下が麻痺。、電動車椅子での生活の中、家族に支えられながらリハビリを続けている。>という記述が、ラグビー小説「不惑のスクラム」に登場する。

 

スポーツにはケガはつきものだが、ラグビーほどケガの多いスポーツはないだろう。

巨漢の選手たちが思い切りぶつかり合うのだから仕方がないと言えばそうなのだが、今回のラグビー世界選手権を観戦していても、包帯やサポーターをしている選手がやたらと目に付いた。

生傷が絶えないようだ。

 

高校の友人I君が話していたことだが、I君はラグビーをしていた友人にお金を貸したそうだ。

その友人がラグビーの試合中に脳震盪を起こし、一時的に記憶を失い、金を借りているのを忘れてしまった。

知人は友人のご両親に事情を話し、お金を返してもらったという。

 

今回の世界選手権でも、頭を強く打った選手は一時的に退場させて、治療する処置が取られていた。

脳障害は後から身体に影響が出てくる。

ボクシングにしろ、ラグビーにしろ、そんな危険なスポーツなど止めたらいいのにと思うのだが、吹き出てくる汗から得られる感動はそのリスクよりも大きなものなのだろう。

 

ラグビー日本代表でスクラムハーフを務めた田中史朗は大会直前に「命がけで戦う」と妻の智美さんに宣言していたという。

日本代表で最も背が低い小兵田中にとって、巨漢の対戦相手から強烈なタックルは命の危険さえ伴うのだ。

そんな田中は「もし俺が死んだら新しいいい人見つけてな」と、智美さんに言ったというから、相当の覚悟で大会に臨んでいたのだろう。

 

南ア戦の敗退で日本のラグビー熱は徐々に静まってきたが、激しい戦いから生じた障害のケアはこれからの選手たち日常に続くのだろう。

 

先週、神戸の整形外科を訪ねた。

主にスポーツ障害を扱っている病院だ。

股関節の不具合がなかなか治らないので、インターネットで私の症状に合った治療をしている病院を探していて、見つけた病院だ。

少年から老人まで、幅広い患者が治療に訪れていた。

リハビリ治療が多く、たくさんの理学療法士が患者を診ていた。

 

身体を動かすのが好きな方だったので、若いころはいろんなスポーツを経験した。

健康にも良いからスポーツをすると思っていたが、それなりのリスクが伴う。

やはり、適度なスポーツが良いのだろうが、高みを目指そうと思えば無理をしないわけにはいかない。

 

私の場合、退職して自由を得たことに舞い上がってしまい、急にテニスをやり過ぎてしまった。

ほどほどに頑張れば良かったと、大きな後悔をしている。

author:金ブン, category:スポーツ, 09:47
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ラグビー観戦の思い出

JUGEMテーマ:ニュース

 

学生の時、西京極球場に2回行ったことがある。

1度目は関西六大学野球の入れ替え戦で、わが校と京都産業大学が対戦した試合を観戦した時。

2度目はラグビー観戦だった。

大学ラグビーの観戦じゃなくて、近鉄の試合だった。

 

ラグビー好きの友人がいて、授業が終了後に誘われて、もうひとりと一緒に3人で西京極へ出かけた。

その時の私はラグビーのルールも解らず、ただの暇つぶしで付いていった。

だから、グラウンドを吹き抜ける風の冷たさしか覚えていない。

試合観戦が終わって、ラグビー好きの友人が選手の通用口まで選手を見に行くというので付いていった。

すると、友人が「あ、坂田さんがいる」と言いながら、通用口近くの椅子に座っている選手に近づいて行った。

友人は握手を求めると、その選手は気軽に応じてくれた。

私ともうひとりの友人も誘われるままに、選手と握手をした。

その人物が「世界のサカタ」と言われるほどに有名な選手であることを友人が教えてくれた。

その後、ラグビーのテレビ中継で、その人物が解説するのを見ると、初めて観たラグビー観戦の時を思い出す。

 

それから、松尾雄治が活躍した新日鉄釜石の7連覇や神戸製鋼の平尾誠二が活躍した時代、1月に放送される日本選手権を時々観戦した。

日本での試合だけを観戦していると、チームプレーが重要なスポーツには日本人に適しているので、さぞ世界でも闘えるだろうとと思っていたが、世界では全く通用しなかった。

以前、テレビでオールブラックスとの試合を観た時、余りの力の差に失望してしまった。

 

今回のワールドカップはその差が確実に縮まっているのが感じられる大会だ。

いよいよ、明日は運命のスコットランド戦だ。

まだまだ、かなり実力差があるような気もするが、二度目の奇跡が起こるかも。

 

昨夜から「不惑のスクラム」を読み始めた。

西京極に一緒にラグビーを観戦した友人から薦められたラグビーの本で、NHKのドラマになった小説だ。

江戸川のほとりで自殺しようとしていた男が中高年のラグビーチームに誘われるところから始まっている。

 

とにかく、前期高齢者になった私は、こころ踊るドラマに渇望している。

author:金ブン, category:スポーツ, 09:57
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敗れても敗れても

JUGEMテーマ:ニュース

 

クソが付くほど暑い毎日だが、夏は野球が熱い。

今年は一度母校の試合を見ようと思っていたが、1回戦で負けてしまった。

母校が甲子園出場を果たしてくれたらと思うのだが…。

 

3年前、新聞のスポーツ欄を見て驚いた。

「東大野球部、連敗94で止まる」

東京六大学野球は春と秋のリーグ戦がある。

東大は2010年の秋から2015年の春まで、負け続けていた。

この記事を見ると、東京六大学に東大が参加していることが不思議だった。

 

他の私学と違って、東大は大きなハンディを背負っている。

入学するのが極めて難しいこと。

当然、私学のようなスポーツ推薦入学がない。

他の私学にはプロ野球に進むスラッガーたちが集まってくる。

 

なぜ、東大はそんな私学の野球部と同じグラウンドに立つのか。

 

門田隆将の「敗れても敗れても(東大野球部「百年」の奮戦)」を読めば、その答えがある。

六大学野球は昭和の初め、近所の大学が対抗戦をすることで始まった。

東大、慶應、法政、明治、立教、早稲田の六校だ。

最後に参加したのが東大だった。

最初は戦力が拮抗していた。

しかし、時代とともに私立校が強くなっていった。

東大は唯一の国立大学なので、受験に合格しないと入学出来ない。

いくら野球が上手でも、入試に合格しないと東大野球部に入れない。

 

関東には東都大学リーグというのもあるが、ここは4部制。

リーグ戦で負けると1部リーグから下の2部リーグに落ちる。

だが、東京六大学リーグではいくら負けても落ちることがない。

リーグが1部しかないからだ。

 

つまり、東京六大学野球リーグというのは<伝統>で成り立っているのだ。

弱いからといって、排除されることがない。

 

そうかといって、勝負への執念が欠けているわけではない。

東大は優勝を目指している。

だが、結果はいつも勝ち点さえ取れない有り様だ。

それでも練習で技術を磨き、勝つために必死なのだ。

 

著書の中で、部員だったOBのひとりが語っている。

「東大野球部の優勝は「夢」です。夢がたとえ実現しなくても、その夢にむかっていけばいいんじゃないかと思います。今シーズン優勝すると言ったら、それは、ただのバカです。“やがては優勝できるチームに向かって、われわれは進んで行く”というのと、“今シーズン優勝するというのは違うんですよ。私は、今シーズン優勝するとか、三位になるとか、ひと言も言ったことが無いんです。」

 

スポーツの真髄は頂点を目指していく過程にあると云える。

 

さて、プロ野球だが…。

 

今では全くと言って良いほど、野球のテレビ観戦をしなくなってしまった。

だが、新聞のスポーツ欄では阪神タイガースの試合結果は真っ先に確認してしまう。

大概、「また、負けとるな」と言って、新聞を閉じることになる。

 

30年前は阪神の勝ち負けに熱くなっていた。

 

阪神タイガースが優勝した1985年、関西は熱狂した。

長年の阪神ファンだった私も21年ぶりの優勝に酔いしれた。

日本シリーズでは西武に勝利し、球団史上初めての日本一にもなった。

 

私は小学校の時から阪神タイガースのファンだった。

住んでいたのが阪神沿線だったし、実家は「阪神パン」というパン屋をしていた。

パン職人たちはほとんどが阪神ファンだった。

実家の近くは阪神ファンの巣窟で、阪神が勝った翌日、近所の市場では必ず安売りをしていた。

 

ファンになったのは小学生のころ。

そのころ、阪神は2度優勝している。

1度目は小山と村山の投手が活躍し、打者は並木、後に監督で優勝する吉田、三宅等の選手がいた。

島倉千代子の旦那になった藤本や外人のソロムコなんて選手も活躍した。

2度目は東京オリンピックの年で、村山と外人のバッキーが活躍し、打者には小山とトレードされた山内というホームランバッターがいた。

 

阪神が2度目の優勝した翌年から、巨人は9連覇する。

阪神タイガースにとっては暗黒の9年間だった。

リーグ優勝に手が届きそうになるが、いつもコケテしまう。

でも私には、江夏と田淵が「黄金のバッテリー」と云われて活躍していた<その頃>が一番輝いていた。

甲子園で江夏が投げて、堀内から田淵がホームランを打った試合は今でもはっきりと覚えている。

「優勝する夢」にしがみ付いていた。

 

今ではあまり関心が無くなってしまったが、遠くに行ってしまった昔の恋人を時折思い出すように、新聞のスポーツ面を眺めている。

 

「敗れても敗れても(東大野球部「百年」の奮戦)」のあとがきで、著者門田隆将が書いている言葉が印象に残っている。

 

<目標がたとえ実現不可能であっても、それでも、この組織の「挑戦」は延々とつづくのである。理屈に合わないかもしれない目標に向かって、地を這うような努力をつづけている組織というのは数少ない。よくよく考えてみれば、いまの時代に、これほど不器用で、かつ、不合理な組織が、ほかにどれほどあるだろうか。>

 

東大野球部の胴上げを見てみたいものだ。

死ぬまでに、一度。

author:金ブン, category:スポーツ, 11:23
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スポーツ選手の悲劇

JUGEMテーマ:日記・一般

 

平昌オリンピックが近づいてきた。

北朝鮮の参加問題や出場選手の話題など、徐々にヒートアップをしている。

楽しむべき、本来のスポーツの役割がどこか歪んでいるような違和感を覚える。

 

先週、カヌー競技の薬物混入事件が報じられた。

カヌーの有名選手が後輩の飲み物にドーピング違反の薬物を入れて、ライバル選手を退けようとした。

東京オリンピックに出たいという気持ちがそうさせたのだという。

一流のスポーツ選手がまさかこんな事件を起こすとは、と驚いていたのだが、世界ではそう珍しいことではないというから、さらに驚く。

 

海外のスポーツ大会では自分の飲み物には常に細心の注意を払わないといけないらしい。

記者会見で出される飲み物だって、選手は手を出さないという。

ホテルでもレストランでも、選手たちは口に入れるものを常に自身で管理しなければならない。

ドーピング対策だけではなく、競技に使う道具だってそうだ。

身に付ける道具ひとつで、その結果が大きく変わってしまう。

競争相手が道具を傷つけたりするという。

スポーツの世界だけに、そんなことを耳にすると、なんか殺伐とした気分になる。

妖怪たちの世界に見えてきたり…。

 

オリンピックを目指す選手たちには、出場することやメダルを獲得することに大きな期待が掛かる。

オリンピックは参加することに意義がある、なんて云われたのは過去のこと。

出場すると、順位や記録に底知れないプレッシャーが掛かってくる。

 

そのプレッシャーに打ち勝つものもいれば、押しつぶされてしまう選手もいる。

 

1964年の東京オリンピックで、印象に残っている選手がいる。

マラソンの円谷幸吉だ。

アベベが優勝した東京オリンピックのマラソンで、円谷選手は銅メダルに輝いた。

アベベがゴールテープを切った後、しばらくして競技場に入ってきたのは円谷だった。

そのすぐ後ろにイギリスのヒートリーが迫っていた。

日本の観客で埋め尽くされた国立競技場は円谷への声援にあふれていた。

ところが、競技場に入ってからヒートリーに追い抜かれて、円谷は3位でゴールインした。

倒れ込むようにゴールした円谷の姿を、私は鮮明に覚えている。

その姿は、ゴールを切った後平然とジョギングをするアベベの姿とは対照的だった。

死力を尽くした、やり尽くしたという円谷の姿が印象に残った。

 

自衛隊の体育学校に所属していた円谷は長距離選手として注目されていた。

オリンピックではまずトラックの1万メートルで代表に選ばれた。

マラソンでは君原や寺沢という有名選手がいて、あまり注目されなかったが、オリンピックの年の3月に初マラソンを走って優勝し、翌月の4月に毎日マラソンでも2位になり、マラソンで代表選手に選ばれている。

そして、本番で銅メダルを獲得し、日本人でただひとり国立競技場に日の丸を挙げた。

因みに、1万メートルでも6位に入賞している。

 

その後、円谷は一躍長距離界のヒーローに祭り上げられた。

次のメキシコオリンピックの金メダル候補とも言われるようになる。

だが、円谷は腰椎に持病を抱えており、その後腰痛に悩まされて、走ることが出来なくなってしまう。

そして、メキシコオリンピック開催年の1月に、自殺してしまう。

 

円谷が自殺した年、私は陸上部に所属し、中学生の3年生だった。

自殺のニュースに衝撃を受けたのと覚えている。

オリンピックで栄光をつかんで注目され、陸上界だけでなく日本中から期待された。

思うように動かない身体に焦り、絶望したとも考えられるが、自殺の理由は謎だった。

 

円谷の死が長く語り継がれるのは、その遺書の内容に影響している。

自殺したのが正月明けの1月9日だったことを思うと、何とも切ない文章である。

 

父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。

干し柿 もちも美味しうございました。

敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。

勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。

巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。

喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。

又いつも洗濯ありがとうございました。

幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。

モンゴいか美味しうございました。

正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。

幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、

良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、

光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、

幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、

立派な人になってください。

父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。

何卒 お許し下さい。

気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。

幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。

author:金ブン, category:スポーツ, 10:45
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短距離走

JUGEMテーマ:ニュース

 

早く走るには、足の筋肉はもちろんだが、上半身の筋肉を鍛える必要がある。

だから、短距離選手はみんな上半身が筋肉モリモリだ。

中学生時代早く走るため、やたら腹筋を鍛えていた。

毎日毎日、腹筋や腕立て伏せをくり返していた。

 

中学生の時、陸上クラブに入っていた。

といっても、3年通してじゃない。

1年生はテニスクラブに入って1ヵ月くらいで辞め、次にバレーボールクラブに入って2ヵ月くらいで辞めた。

2年生になって帰宅部だったが、悪ガキに付きまとわれイジメを受けるようになった。

それから逃げるために、陸上部の友達に誘われたこともあって、陸上部に入った。

 

入部した初日、「走れ、走れ」としごかれ、すぐに足がつって走れなくなった。

しかし、辞めるとまた悪ガキに付きまとわれるので、我慢して続けた。

元来スポーツは好きなのだが、努力とか根性とかに縁がなかった。

走るだけのスポーツのどこが楽しいのだろうと思いながら、嫌々練習に参加していた。

 

ところが、走るという単調なスポーツは練習した分、確実に早くなってくる。

市内大会には100mと、なぜか400mにエントリーした。

東京オリンピックで見た影響か、400mのトラックを1周走る姿が印象に残っていたからだろう。

しかし、この距離を走る切るのはかなり苦しい。

最後100mの直線では足がほとんど上がらなくなる。

ゴールした瞬間は酸欠状態で倒れそうになる。

だが、この苦しみが快感に変わってくる。

練習すると、徐々にタイムが縮まってくるからだ。

この時、努力したら報われるものだという人生訓を教わった気がする。

 

努力の割に伸びなかったのは100mの短距離走だ。

当時、13秒台半ばで走っていた。

1,2度12秒台で走ったことはあったが、それでは陸上大会での予選を勝ち抜くことは出来ない。

早い選手は11秒台で走っていた。

短距離走は練習をしたからといって、そう早く走れるものではない。

ほとんど、天性のものだ。

 

でも、ある程度早く走れるようになると、学校の体育祭ではええ格好が出来る。

学級対抗リレーでひとり二人抜き去ると、女生徒の黄色い声援がさらに大きくなる。

学校では、足の速い男が確実にモテル。

 

その頃、日本で最も有名なスプリンターは飯島秀雄だった。

1964年の東京オリンピック100mでは準決勝まで進んだ。

その時の記録が10秒3

飯島は東京オリンピックの4ヵ月前に10秒1の日本記録を出していた。

だから、開催前はメダルに届くのではないかと騒がれていた。

だが、メダルどころか、決勝まで進めなかった。

世界のレベルはとてつもなく遠いところにあった。

 

優勝したのはボブ・ヘイズというアメリカの選手で、記録は10秒0

ヘイズは準決勝で9秒9を出したが、追い風の参考記録だった。

東京オリンピックの始まる前、ヘイズは9秒9を出している。

100mを9秒台で走った人類で初めて男だったが、その時も追い風参考記録だった。

もう半世紀以上前の話だが、100m「10秒の壁」といわれ、なかなか9秒台の壁は破れなかった。

東京オリンピックから4年後、アメリカのジム・ハインズによって9秒95の世界記録が誕生した。

 

今週、日本人で初めて100m9秒台が出た。

何度か9秒台を記録した選手はいたが、すべて追い風参考記録だった。

9秒台で走った桐生選手は最初に走ったジム・ハインズから125人目だそうだ。

50年の間に、世界では100人以上の選手が9秒台で100mを駆け抜けていた。

短距離走では日本は後進国なのだ。

 

練習の仕方やシューズが発達した結果だろうが、9秒台が人間の限界なのだろう。

 

数年前、日本人の高齢現役スプリンターが100mを完走して、ギネス世界記録に認定されたというニュースをテレビ放送で見た。

よたよたと走る映像に笑ってしまったが、年齢が105歳というから驚いた。

記録は42秒22

高齢化社会で、平均年齢が100歳を超える時代がくるという。

この記録なら、まだまだ更新されそうだ。

author:金ブン, category:スポーツ, 09:39
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Bリーグ観戦

JUGEMテーマ:日記・一般

 

Tは重いバッグを抱え、体育館の通路を歩く。

たくさんのファンが選手用出口に群がっている。

ほとんどはTを待つファンだ。

警備員に守られながら、体育館に横付けされたバスに向かった。

小雨が降る中、ファンがバスを取り囲み、Tに声援を送る。
Tは少し笑みを浮かべながら、ファンに手を振って歩く。

バスに乗り込むと、中央の座席に座った。

すでにほとんどの選手が座席に着いている。

運転手がドアを閉め、バスは発車した。
背もたれに体重を沈めると、試合の疲れが身体全体を巡る。

しかし、勝利の後の疲れは心地よい。

76−68。

一度もリードを許さなかった。

完全アウェーの中で、危なげない勝ち方だった。

 

飛行場に向かうバスは阪神高速に入った。

雨が強くなり、水滴が窓を伝って落ちる。

Tはぼんやりと車窓から大阪の町を眺めた。

夕闇の中に、街灯の群れが星のように散りばめられている。

 

脳の奥深くに沈んでいた、欠片のような記憶が浮かび上がってきた。

 

アメリカのバスケットチームでプレーしている時、「メイク・ア・ウッシュ」から連絡があった。

「メイク・ア・ウッシュ」は難病の子供たちの希望を叶えるために活動している団体だ。

ガンに罹った15歳の少年から、ビデオレターが欲しいという願いがあったという連絡だった。

少年は中学でバスケットをしていた。

Tと同じポイントガードのポジションだったと知らされた。

少年を少しでも勇気づけることが出来たらと、快諾した。

 

「メイク・ア・ウッシュ」の担当者がやってきて、ビデオレターを撮影した。

ビデオレターと一緒に、いつもTが試合で両腕に付けていたリストバンドのひとつを贈った。

もう10年以上前のことだが、その後少年はどうなったのだろうか?

 

・・・・・・・・・・・

 

「栃木ブリックスと大阪エベッサの試合があるらしい」

突然、スマホをしていた妻が顔を上げた。

「どこで?」と私が訊く。

「今度の日曜日、大阪の舞洲で」

 

同じBリーグでも栃木ブリックスは東地区、大阪エベッサは西地区。

地区が違う両チームが対戦する試合は多くない。

次の土日に大阪で対戦することになっていた。

 

「まだ1階自由席は空いているみたい」

スマホをいじっていた妻がいう。

「行ってみるか」

 

小雨が降る日曜日、車で舞洲まで出かけた。

私にとって、バスケットの試合を観戦するのは息子の練習試合以来だ。

全国大会を前に、岐阜の大垣まで練習試合に出かけた。

私は運転手として、12日の遠征に付き合った。

12年前のことだ。

 

私が舞洲で見たいのは栃木ブリックスの田臥選手だ。

妻も同じ気持ちだ。

 

試合開始は14時だった。

田臥のいる栃木ブリックスの試合なので、かなり混雑を予想していた。

早めに体育館に向かったが、観客の多さは想像以上だった。

広い臨時駐車場にどんどん車が流れていく。

 

体育館の入場口には若者たちや子供連れのファミリーが長い列を作っていた。

当日のチケットは売り切れだ。

私たちはネットでチケットを買っていた。

 

ゴール近くに用意された臨時客席のパイプ椅子に座った。

席のすぐ後ろに、高石ともや似の変なオジサンが座っていた。

チョンマゲのカツラを被っている。

カツラのてっぺんに、駄菓子屋で売っている<吹き戻し>のおもちゃが付けてある。

口近くに細いホースが出ていて、それを拭くと<吹き戻し>がピロピロと伸びたり縮んだりするのだ

 

「エベッサの試合はいつも2千人程度なのに、今日は7千人を超えているで」

変なオジサンは大声で話す。

その人はエベッサの名物応援団らしく、年間席を買っているという。

年間席に座らず、なぜか自由席に座っていた。

案内のアナウンスによると、観客数は7500を超えていた。

今シーズン最高の観客数だという。

 

 

エベッサの選手入場口は閑散としていたのに、栃木ブリックスの選手入場口は人だかりが出来ていた。

お目当ては田臥選手だ。

入場してくる田臥への声援はひと際大きい。

選手としての峠を越えた36歳といっても、バスケット界のスーパースター。

オーラが出ていた。

観客の多くはこの田臥勇太を見に来ている。

私も妻も。

 

絶妙のパス回しと驚異のスピード。

その一挙手一投足に魅せられた。

となりに座っている観客も、「スゴイ、凄すぎる」と何度も叫んでいた。

 

    フリースローする田臥選手

 

圧巻は第4クォーター。

10点リードしていた後半、ミスが続き4点差に迫られた。

そこからの田臥は凄かった。

パスを受けると、思い切って中に入りシュート。

連続シュートで、再びエベッセを引き離した。

ホイッスルが鳴り、試合終了となった。

 

「田臥って、ビデオレターのことを覚えているやろか?」

私は会場から退場していく田臥の姿を眼で追いながら、妻に言った。

「そうやね。覚えていたら良いのにね」と、妻が返す。

 

今年、息子の13回忌だ。

田臥選手から贈られたリストバンドは、天国にいる息子の手首に付けている。

author:金ブン, category:スポーツ, 11:34
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オリンピック雑感

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リオ五輪は予想以上に盛り上がった。

 

世間が盛り上がっていると、あまのじゃくな私は少し冷めた目で見たくなるものだが、今回のオリンピックはそうはいかない。

ドラマが多かった。

歳のせいか、つい<もらい泣き>をしてしまった。

テレビ画面に映し出される泣くシーンに、思わずうるうると…。

嬉しくて泣くシーンがあり、悔しくて泣くシーンがある。

 

何年ぶりのメダルだとか、これで何個のメダルになったとか。

金しか、メダルの価値が無いという選手もいた。

「2位じゃ、ダメなんですか」と、かつて女性議員が言っていたが。

2位じゃ、ダメなんだなぁ、この人にとって。

 

女子レスリングの吉田選手は銀メダルで、「申し訳ない」と謝罪のことば。

本人は心の奥で、負けるんじゃないかという恐怖心があったようだ。

期待が大きいだけに、重圧も大きかった。

「取り返しのつかないことをしてしまった」

インタビューで応えたこの言葉が重圧の大きさを物語っている。

すんなりと金メダルを取ってしまうより、もっと大きなことを学んだような気がする。

 

現実は厳しいのだ。

現実は描いた夢を容赦なく壊してしまう。

これがスポーツの残酷なところであり、また魅力なのだ。

 

前日行われたレスリング女子48キロ級でも、<2位じゃ、ダメなんです>という感情をむき出しにしていた選手がいた。

登坂選手に負けたアゼルバイジャンのスタドニク選手だ。

表彰台でニコリともせず、下を向いたままだった。

あと数秒で逆転されたのだから、悔やみきれないのだろう。

 

金メダルの喜びと同じ数の悔し涙がある。

 

柔道男子は全員がメダルを獲得し、盛り上がった。

女子も金メダル1つと銅メダル4つとまずまずの成績だった。

男女とも予想以上の成績だっただけに、ひとり初戦敗退した78キロ級の梅本選手は悲惨だった。

試合後、アナウンサーの問い掛けに、言葉が出なかった。

郷里の母校ではたくさんの人がテレビの前で応援していたのだろう。

期待に応えなければというプレッシャーが身体の動きを固くしていたに違いない。

 

勝つか負けるかは、気ままな神様の悪戯。

人間の力ではどうしようもないところがある。

運というものなのだろう。

諦めきれないが、最後は諦めるしかない。

 

練習量は必要条件だが、絶対条件ではない。

血の滲むような努力をした選手はたくさんいたが、報われるのは一握り。

 

試合と、試合を離れた時と、全く違う表情を見せていたのが、卓球女子の福原愛ちゃん。

団体戦での愛ちゃんの表情には悲壮感があふれていた。

「今回のオリンピックは本当に苦しかった」

泣きながら応えていたインタビューの言葉がメダルへの重圧の重さを物語っていた。

銅メダルが決定した瞬間、福原が泣きじゃくっていたのが印象的だった。

 

それにしても、卓球は中国出身の選手がやたらと多かった。

女子団体で、ドイツはふたりが中国出身だし、シンガポールも3人とも中国出身だという。

母国では層が厚過ぎて、オリンピックに出場するチャンスが無い。

そこで他国へ帰化して、出場の機会を得る。

それを批判する気はない。

猫ひろしだって、カンボジアから出場しているし…。

世界中の国がごちゃまぜになって戦うのも面白いのじゃないか。

 

ナショナリズムを煽動するのがイカン。

日頃スポーツの話をめったにすることが無い、91歳の父が言う。

ヒトラー政権時代にドイツで開催されたベルリンオリンピックのことを思い出していた。

その時、父は11歳だった。

世間の空気が国家主義に包まれている時代だ。

最近海外の報道はテロのニュースが多いが、スポーツは平和で良い。

領土問題、民族問題、宗教問題など、すべてスポーツで決着をつければ良い。

 

早起きが続いたオリンピックも、もうすぐ終わる。

author:金ブン, category:スポーツ, 17:53
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モハメド・アリの死
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今週も、ワイドショーは都知事の話題で盛り上がっていた。
コメンテーターたちが政治家に<人間性>や<倫理観>を求めている姿を見ていると、おばちゃんたちの井戸端会議を思い浮かべてしまう。
言いたい放題だ。
悪いのは都知事であることは確かなのだが、連日テレビ画面に袋叩きの様を見ていると、うんざりとしてくる。
飽き性で忘れっぽい視聴者の関心はいつまで続くだろうか?
 
そんな話題の中、世界に大きなニュースが報じられた。
モハメド・アリの死去だ。
ボクシング界だけではなく、すべてのスポーツ界の中でも、最も偉大な選手という人もいる。
昭和20年代生まれの私にとって、最も印象深いボクサーであることは間違いない。
熱烈なボクシングファンのひとりとして、アリの思い出に触れたい。
 
カシアス・クレイというボクサーを最初に見たのは小学生の雑誌記事だった。
チャンピオンのソニー・リストンとクレイが紹介され、さてどちらが勝つのだろうかという内容だった。
ふたりのファイティングポーズが写真で掲載され、強い者に憧れる小学生の私はその強靭な肉体に、胸震わせたものである。
結果、クレイがTKOでリストンを倒し、世界チャンピオンになった。
その後、リターンマッチが行われ、1R2分12秒で再びクレイが勝つ。
その頃は海外のボクシング中継を観戦する機会が無く、その対戦結果は後に知ることとなり、カシアス・クレイの試合を目にすることは無かった。
 
クレイとリストンの対戦の数年前、日本では、彗星のように現れたファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを破り世界チャンピオンになり、ボクシングブームが起こっていた。
当時、ファイティング原田がエデル・ジョフレに勝ち世界バンタム級チャンピオンになったテレビ中継の視聴率は60%を超えていたという。
その後、大場政夫、西城正三、小林弘、柴田国明、藤猛など、次々と世界チャンピオンが現れ、私はテレビのボクシング中継を興奮して観戦していた。
 
世界チャンピオンになったカシアス・クレイはモハメド・アリに改名し、防衛を続けるが、ベトナム戦争の兵役を拒否したため、世界王座の資格を剥奪され、3年7カ月のブランクを強いられることになる。
その頃から、ボクサーとしてだけでなく、人種差別撤廃や公民権運動の活動家として、有名になっていく。
 
モハメド・アリを語る時、ヒール役となったふたりのボクサーを思い出す。
ジョー・フレージャーとジョージ・フォアマンだ。
どちらも圧倒的なファイターで、フレージャーは闘牛のようにガンガンと前進し、パンチを繰り出す。
フォアマンは丸太ん棒を振り回すようパンチで、ガードの上からでも相手は吹っ飛んでしまうほどの迫力だった。
 
資格はく奪の長いブランクから復帰したアリは当時世界チャンピオンだったフレージャーに挑戦するが、判定負けで初黒星を喫する。
その試合の15Rにフレージャーのパンチを受けて、アリがダウンするのだが、そのシーンを観たテレビの視聴者が心臓まひで亡くなったという報道があった。
それほど、アリには絶大な人気があり、スター選手だった。
その試合は日本でもテレビ中継された。
これまで私は、アリの試合をニュース録画でしか観たことが無かったので、それが初めての観戦だった。
しかし、長いブランクがあったアリはスピードが無く、フットワークも続かず、クリンチが多かった。
私は失望していた。
もっと、スピードのある鋭いパンチがさく裂するものと思っていたからだ。
もう、峠を過ぎてしまったのだろうと感じられた。
 
その後も、人種差別撤廃などの社会活動を行い、アリの人気は依然高かった。
その頃、アリはボクシング人気が高かった日本で、ノンタイトル戦をしている。
日本武道館でマック・フォスターと闘ったのだが、格下相手にスカッとしたKO勝ちを期待したのだが、真っ向から打ち合うことの無く、判定勝ちだった。
アリのボクシングは老獪なアウトボクシングが目立ち、ボクシングの醍醐味であるKOシーンがほとんど見られなかった。
 
1973年、ジョージ・フォアマンが世界チャンピオンのジョー・フレージャーに挑戦した試合がテレビ中継された。
アリを圧倒したフレージャーはフォアマンの強打の前で為すすべも無く、2RでKOされてしまう。
私は、フォアマンの飛び抜けた強さを前に、オシッコをちびりそうになった。
フレージャーの巨体が連続パンチを浴びて、吹っ飛んでしまったのだ。


 
すごいチャンピオンが現れたものだ。
 
この試合の7ヶ月後、フォアマンは日本武道館で初防衛戦を行う。
挑戦者ホセ・ローマンを全く寄せ付けず、1Rでノックアウトしてしまう。
像がネズミを踏みつぶすような試合だった。
試合後、まるで軽いストレッチを終えたように、フォアマンが平然とレモンを丸かじりしている映像が映っていた。
テレビ中継を観ていた私は、またまたオシッコをちびりそうになった。
 
https://www.youtube.com/watch?v=xhL0AICQ1O8
 
当分、フォアマンに敵う者は現れないだろう。
誰もが、そんな印象を持った試合だった。
 
しかし、その翌年(1974年)ジョー・フレージャーに勝ったアリがフォアマンへの挑戦権を手に入れるのだ。
全盛期のフォアマンに、もう衰えてしまったモハメド・アリが挑戦する。
アリの勝利を信じる者は少なかった。
観衆の興味は、フォアマンが何ラウンドにアリを倒すのだろうか、だった。
私もそんな気持ちで、アフリカのキンシャサから送られてくる衛星放送の生中継を観戦した。
 
結果は、後に「キンシャサの奇跡」として語り続けられる、8RのアリのKO勝ちとなった。
アリはこの試合のために、ボディ(腹)を徹底的に鍛え、フォアマンのハンマーパンチに備えた。
打たせるだけ打たせ、フォアマンの疲れを待ち、一瞬の反撃で射止めた。
この瞬間を観た私は、オシッコをちびってしまった。
 
https://www.youtube.com/watch?v=kANNhbDt-fQ
 
その後、アリはチャンピオンベルトを10回防衛するが、感動するような試合は無い。
老獪なアウトボクシングを駆使して、何とか判定勝ちをする。
アリの試合は、日本のテレビでも生中継されたが、スリリングなKOシーンはほとんど無かった。
もちろん、アントニオ・猪木との格闘技戦にはがっかりさせられたが…。
(アリには茶番劇をしなければならない経済的な理由があったのだろう)

 
引退後、久しぶりにテレビに映ったアリの姿は衝撃だった。
アトランタオリンピック開会式の聖火台で、最終点火者として登場したのだ。
聖火を持つ手がブルブルと震え、放心したように無表情だった。
長年の、ボクシングによる脳への衝撃により、パーキンソン病を患っていたのだ。
毅然として立つアリの姿に、会場から万雷の拍手が鳴り響いていた。
どんなに変わり果てた姿でも、モハメド・アリはアメリカ社会の象徴的存在だった。
 
パーキンソン病を発表する記者会見で、アリはこういっている。
「身体的に自分が被ったものは、人生で成し遂げたことを思えば、それに見合うものだ。リスクを冒す勇気のない者は何も達成することはできない。」
モハメド・アリの生き方を表した、魅力的な言葉である。

author:金ブン, category:スポーツ, 17:48
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禍福は糾える縄の…
JUGEMテーマ:日記・一般

1980年代の後半だったと思うが、京都営業所から所長のTさんが営業部長として大阪本社に転勤してきた。
このTさんはかなりゴンタと評判の人で、大阪本社の社員たちは戦々恐々としていた。
鼻が大きく、社員たちは陰で「ハナ」と呼んでいた。
(昔のテレビドラマ「コンバット」に出てくるリトルジョンに似ていた)
 
リトルジョン
 
例えば、営業マンが外から会社へ電話を入れる時、「今、ハナおるか?」とか言って、社員たちはうるさ型のT営業部長の動向を常に気にしていた。
 
数年後、鶴見緑地で「花の万博」が開催された。
1990年だから、26年前のことだ。
世の中はバブル景気の真っただ中で、みんな浮かれていた時代だ。
大阪万博以来の万国博覧会で、たくさんの入場者でにぎわっていた。
 
会場内に、オーガスタゴルフクラブの12番ホールが再現していていたのが話題になった。
オーガスタゴルフクラブは毎年4月にマスターズが行われる有名なゴルフコースだ。
トーナメント期間中はつつじ科のアザレアが咲いていて美しい。
 
万博の目玉イベントひとつとして、ここでパー3コンテストが開催された。
応募抽選により、当選者はこのショートコースを体験できる。
そして、ワンオンした人は賞品が貰え、グリーンでパットが出来る。
ゴルフ愛好者にとって、貴重な経験だった。
 
当然、たくさんの応募があった。
ゴルフが趣味だったTさんも応募するのだが、みごと抽選に当たった。
Tさんは勝負運の強い人だった。

 
余談だが、その頃私はゴルフを始めたばかりで、一度Tさんとくずはの河川敷ゴルフをご一緒したことがあった。
アウトの3番パー3で、ホールインワンを達成された。
私は目の前でホールインワンを見たのはその時が最初で最後だった。
プレー後、ラーメンをご馳走になり、靴下を頂いたのを覚えている。
 
それから挑戦するまでの日々、Tさんは社内でゴルフの話題を吹聴されていた。
オーガスタゴルフクラブの12番ホールというのは横長のグリーンで、手前に大きなバンカーとクリークがある。
距離は155ヤードと短いが、縦幅は非常に狭く、グリーン面はうねっている。
プロでも難易度が高いホールのひとつだ。
 
悪運の、いや違った、勝負運の強いTさんはみごとにワンオンされた。
バーディこそ取れなかったものの、パーで上がられた。
ちなみに、開催中挑戦した人は22705人で、ワンオンに成功したのは1302人、5.7%の確率だった。
 
その後、Tさんはこの話題ばかりを口にしていた。
社員たちは飲み会まで開いて、Tさんの自慢話を聞くはめになった。
 
今年(2016年)のマスターズは面白かった。
定年退職して早起きの私は4日間テレビ中継を観ていた。
スポーツは劇的な逆転が一番面白い。
その最終日は思いもよらない逆転で幕を閉じた。
 
3日目までトップを守り続けていた、ジョーダン・スピースがアウト終了時点で、2位に大差をつけて独走態勢だった。
スピースは昨年の大会で4日間首位を通して完全優勝を飾り、この大会で完全優勝なら史上初の快挙だ。
しかも、アウトを終える前は4ホール連続バーディ。
付け入る隙があるように思えない、試合の流れになっていた。
観ている大半の人がスピースの優勝を信じ始めた時だったろう。
 
私は「優勝が確実だな」と感じながら、朝食の用意などで20分ほどテレビから離れた。
再びテレビを点けた時、12番ホールをプレーしていたスピースが映っていた。
打ったボールがグリーン前のクリークにポチャンと落ちた。
それがティーショット池ポチャした後の打ち直しの打球だと知って、しばらく画面に釘づけになった。
さらに驚いたのは、インに入っての10番と11番もボギーを叩いていることだった。
「信じられないことが起きましたね」というアナウンサーの言葉に、ゴルフという競技の恐ろしさを再認識するのだった。
結局、スピースはこの12番が7打となり、11番からの3ホールで6打もスコアを落としてしまった。
「何が起こったのか、よくわからない」と、スピースの言葉。
勝ちを意識した時、心が揺れ始めたのだ。
 
以前全英オープンでも、優勝を目の前にして崩れてしまった選手がいた。
この人も信じられないほど、精神的に動揺していた。
17年前、全英オープン最終日でのことだ。
フランスのプロゴルファー、ジャン・ヴァン・デ・ヴェルデは全く無名の選手だった。
最終日17番ホールを終えた時点で、2位に3打差をつけてトップに立っていた。
最終ホールをダブルボギーでも優勝できたのだが…。
 
(18番の様子をウィキペディアから引用すると)
<最終18番(パー4)、ティーショットで右に大きく曲げて隣のホールへ。
無理してグリーンを狙った2打目は観客席を直撃して深いラフの中に入ってしまう。
そして3打目。ダフリ気味のボールは無情にもクリークの中へ。
すっかり冷静さを失ったヴァン・デ・ヴェルデは裸足でクリークの中に入って水切りショットを試みようとするが、無謀なのは明らかで結局1打罰を払い、5打目に賭けることとなる。
5打目もクリークを越えたもののバンカーに捕まり、結局6オン1パットのトリプルボギーを叩き、プレーオフになってしまった。
結局プレーオフでポール・ローリーに敗れ、まさかの大逆転負けを喫してしまった。
このゴルフ史に残る逆転劇は「カーヌスティの悲劇」「ヴァン・デ・ヴェルデの悲劇」として鮮烈な印象を残した。>
 
録画したテレビを後から観た私は、動揺した選手の様子が哀れにさえ感じられた。
勝負事だから仕方が無いことなのだと、簡単に割り切れなかった。
 
ゴルフというスポーツはナーバスなゲームだ。
精神状態が身体の動きに大きく影響を与える。
どのスポーツにも大なり小なりあることだが、ゴルフは特に心の動きが勝敗を左右するように思う。
 
オーガスタのインコース11番から13番はアーメンコーナーと呼ばれ、風の方向が微妙に変化し、歴戦のプロゴルファーたちでもボールの行方を神に祈るといわれている。
優勝の行方を、「女神の微笑み次第」と解説者たちは表現する。
選手の持って生まれた運不運というのもあるのだろう。
 
さてTさんだが、持って生まれた強運を活かし、その後役員に抜擢され常務の地位まで登られた。
自己中心的な性格で、日頃から横暴な態度が目立っていた。
仕事熱心だという上司もいたが、社員のほとんどが敬遠していたようだ。
現在の労働環境なら、パワハラでその地位を追われていたのではないかとさえ思う。
 
しかし、その幸運を現役時代に使い果たされたようだ。
定年後すぐに大腸がんと診断され治療されていたが、数年後亡くなられた。
退職後の楽しみにしていたゴルフもほとんど出来なかったようだ。
 
最後に打った打球が風にあおられて、池ポチャになってしまった。
禍福は糾える縄のごとし、か。
author:金ブン, category:スポーツ, 17:53
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廃線ウオーク
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イケメンといえば、真っ先に福山雅治が思い浮かべる。
シンガーソングライターであり、俳優であり、写真家でもある。
出すCDはヒットするし、出演するテレビや映画は必ず注目を集める。
女性誌の「好きな男性ランキング」では10年連続で2位を獲得しているらしい。
清潔感があり、パンツをウンコで汚したことが無いのではないか。
 
8月に、新曲「I am a HIRO」を出した。
テレビドラマ「花咲舞が黙ってない」の主題歌でもある。
オリコンの週間1位になり、テレビのインタビュー番組に出ていた。
「出演する映画はヒットするし、リリースした歌はこうしてヒットするし…。もう求めるものは何も無いように思えるのですが。次に欲しいものは何ですか?」
そんな女性アナウンサーの質問に、福山は「健康ですね」と答える。
「へぇ、意外なお答ですね。健康ではないのですか?」
アナウンサーが言うと、「健康なんですけど、もっと健康になりたいというか。当たり前のことですけど、やっぱり健康でなければ何も始まりませんしね」
 
病と全く縁がなさそうな福山雅治の言葉だけに、インパクトがあった。
長崎出身の福山雅治は両親が被ばくしており、自身が被ばく二世と発言している。
将来健康に影響するかもしれないと考えているのかもしれない。

健康は、失って初めてそのありがたさが分かる。
そう思って、退職後テニスやウオーキングで身体を動かしているが…。
 
「廃線ウオークに行こうか」
高校時代の友人Hくんから、誘いがあった。
Hくんとは7月に箕面ハイキングを一緒に歩いている。
廃線ウオークとは文字通り、昔電車や機関車が走っていて現在使用されていない旧JR福知山線を歩くのだ。
会社での役割を終えた私は、廃線という言葉にそそられる。
一線を退いた者同士、妙な親近感を覚える。
 

 
生瀬の入口に、こんな立て札が立っている。
廃線となってから、JRとしては線路跡への立ち入りを認めている訳ではない。
どこで知ったのか、ひっきりなしにハイカーが立ち入るため、責任回避としてこんな立て札を立てている。
この日は日曜日とあって、家族連れや若者たちのハイカーが多かった。
もちろん、年配の団体さんも。
 
通常のコースとなっているのは、生瀬から武田尾まで。
その日は宝塚でH君と落ち合い、生瀬駅まで歩いてコースに入った。
生瀬駅から176号線沿いの歩道を歩き、中国自動車道の陸橋と交差するあたりに始点への道がある。
 

 
私たちはこの辺りで道を間違え彷徨っていたが、どこからかハイカーが現れて、ルートに合流することが出来た。
ルートに入ると、迷う道はない。
武田尾まで一本道だ。

アップダウンもなく、小さな子供連れでも大丈夫。
 
武庫川に沿って通る線路跡の道を歩く。
 



 
古びた枕木が置き去りにされたまま、地面に残っている。
現役の時はその一本一本が走る列車を支えていたのだ。
昔、私は列車に揺られて、この上を何度も通ったことがあった。
 

 
両親の実家は福知山線の黒井駅にあった。
終点福知山駅の三つ手前の駅だ。
今でも母方の長男家族が暮らしている。
 
幼い頃、両親に連れられて宝塚から汽車に乗った。
生瀬から武田尾の間は車窓から見える渓流の眺めが素晴らしかった。
渓流は武庫川の上流にあたる。

いつも私が散歩で歩いている、下流の武庫川は穏やかな表情だが、上流の姿は荒々しく勇ましい。
 

 
昔、こことSLが走っていた。
モクモクと黒煙を巻き上げていた。
トンネルに入る前には、慌てて窓を閉めていたものだ。
締めるのが遅れると、煤とともに煙が車内に入ってきた。
 
この区間はトンネルが多かった。
そのトンネルは洞窟のように残っている。
 

 
廃線ウオークには懐中電灯が必需品だ。
真っ暗な空間を歩く。
中はひんやりとして、心地よい。
ひとりのハイカーが天井を照らして、何やら眺めている。
コウモリがぶら下がっていた。
以前は街中でも夜になると見かけたものだが、最近とんと見かけない。
絶滅したのかと思ったが、こんなところを逞しく暮らしていた。
 


中間付近で、弁当を食べる。
昨晩のおかずに卵焼きなどを加えて、今朝作ったものだ。
ハイキングにおにぎり弁当は欠かせない。




渓谷美を眺めながら進み、何本目かのトンネルを抜けたところに鉄橋が架かっている。
武庫川第二鉄橋というらしい。
まだ、枕木がしっかり残っていた。
昭和61年に廃線になったから、もう30年近く車両は通っていない。
当時、たくさんの<撮り鉄たち>がSLの雄姿を追いかけたことだろう。
いつもこの辺りで、渓流の音をかき消すように汽笛を鳴らしていた。
今では色あせている塗料の朱色が、もの悲しささえ感じさせる。
 



 
武田尾に近づいてくると、道幅が広くなってくる。
枕木を使ったベンチも置かれ、自然公園の雰囲気になる。
空腹に急かされて早く食べてしまったが、弁当を食べる場所はこの辺りが良い。
 



 
<さくらの名所 たけだお>の記念碑がある。
最後のトンネルを抜けて少し歩くと、旧武田尾駅があったあたりに行きつく。
 

 
左手に武田尾温泉の看板がある。
秋には紅葉狩りの観光客でにぎわうという。
水上勉や山崎豊子がこの地を舞台に小説を書いているらしい。
歴史のある温泉というので、次回は露天風呂に入ってみたい。
 

生瀬から武田尾まで、7k程度の行程だった。

平坦で歩きやすいので、小学校低学年でも十分歩くことが出来る。

快適なコースだった。
爽やかな初秋の風を吸いこんで、ちょっぴり健康になったような気がした。

「来月は、阪急服部から伊丹まで歩くハイキングに参加しよう」
別れる時、H君が言った。

author:金ブン, category:スポーツ, 18:03
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