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ガンで死ぬか、ボケて死ぬか

JUGEMテーマ:家庭

 

亡くなった母には7人の兄弟姉妹がいる。

長女、次女、長男、次男、三男、三女、四男の7人だ。

昭和の初めは「生めや、増やせや」の時代だった。

母は次女で、2番目に生まれた。

長女は14年前に亡くなり、母は8年前に亡くなっている。

 

先週、長男Fさん(92歳)と長男の嫁Yさん(87歳)、そして、次男Iさん(89歳)がガンで入院していると聞いた。

私が幼いころ、大変世話になった人たちだ。

FさんとYさんの夫婦は丹波の同じ病院に、Iさんは尼崎の病院に入院している。

尼崎に住む叔母(三女)のTさんと連絡を取り、3人の見舞いに行くことになった。

 

14日金曜日、次男のIさんを見舞いに行った。

一人部屋に入っていた次男はかなり衰弱していた。

わずかに話すことが出来たが、か細い声だった。

昔大工をしていて元気な人だったが、20年前に大腸がんになり人工弁を付けている。

それでも手術して寛解し、今まで生きてきた。

先日家族は医者から、持って2ヵ月くらいだろうと寿命を告げられている。

「気分はどう?」と私が訊くと、「もうアカン。いろいろ世話になったな」と、私の手を両手で握った。

 

その後Tさんと、17日の祝日に丹波の病院に入院しているFさんとYさんの夫婦を見舞いに行こうと打ち合わせをしていた。

ところがその日、突然Yさんが亡くなったとの連絡が入った。

葬式は16日に丹波の葬儀場で行われるという。

9月16日は息子の命日で、この日は家族として1年で一番大事な日なのだ。

お坊さんがお参りに来るだけでなく、亡くなって14年にもなるのに、未だにバスケットの友達たちが連れだってお参りに来てくれる。

 

93歳の父親が私に、葬式に出席してくれというので、息子の法事は妻に任せて、私はTさんを乗せて車で丹波へ向かった。

葬式には東京や横浜に住んでいる親戚関係の人たちも出席していた。

久しぶりに会う人たちだ。

 

式が終了し車で斎場へ向かう時、助手席に座っていたTさんの携帯電話が鳴った。

なんと、次男のIさんが急に亡くなったとの連絡だった。

2日前に見舞ったばかりなのに…。

 

慌てて丹波から戻り、Iさんの自宅へ向かった。

家にはIさんの奥さんが居た。

寿命が2ヵ月と告げられ覚悟はできていたとはいえ、突然の死でかなりショックを受けられていた様子だった。
私は翌日の通夜に参列し、17日の葬儀に出席した。

ここでも、2日前丹波の葬儀に参列していた親戚の人たちに再会した。

私は連日喪服を着ることになった。

 

この16日・17日は、俳優の樹木 希林や山本“KID”徳郁がガンで亡くなったことが報道されていた。

叔母のYさん、叔父のIさんもガンで亡くなった。

ふたりに一人はガンで亡くなる時代とか言われているのだが…。

 

通夜や葬儀で久しぶりに会った親戚たちの話はもっぱら認知症に罹っている身内のことだった。

それぞれ、寝たきりの夫や実父、徘徊する義母の介護で悩んでいた。

私の母も認知症で寝たきりになり、7年間老人ホームで暮らした。

世話する側もツライが、意志を表すことが出来ないで世話される側もツライのだ。

これも、家族を襲う深刻な問題である。

 

<君、ガンで苦しんで死ぬか、それとも認知症で寝たきりになって天寿を全うするか>

もし、神様に訊かれたら、どちらを選ぶだろうか。

 

93歳の父親はいつも言う。

「コロッとと、逝きたい」

 

願わくば、私もそうありたい。

 

author:金ブン, category:家庭の話題, 09:57
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好好爺

JUGEMテーマ:家庭

 

歳を重ねれば、物事に動ずることが少なくなるのだろう。

そう、思っていた。

だが、そんなことはない。

ちょっとしたことで、心が揺れ動く。

いくつになっても、変わらない。

心の平安を保つのは難しいものだ。

 

他人から見れば、私という人間はのんびりとして穏やかな性格に見える(ようだ)。

いわゆる、好好爺。

だが、それも見立てだけ。

 

電車で隣の席に幼児を抱いた女性が座る。

私は本を読んでいる。

突然、幼児が愚図りだす。

大声で泣く。

かなり、うるさい。

本に集中できない。

何とか泣き止ませられないかと、横目で若い女をチラ見する。

女はあやしているが、幼児は泣きやまない。

泣くのが仕事だからと、思う。

私は本を閉じて、幼児の顔を見る。

すると、女性は私の視線を感じて、済まなさそうに軽く頭を下げる。

私は少し微笑んで「大丈夫ですよ」と言い、いかにも好好爺を演じる。

しかし、腹の中は違う。

「泣かすな」と毒づき、心はささくれている。

 

歳を重ねることは、演技が上手くなることだ。

 

若いころは感情を抑えられず、キレることがあった。

北海道の襟裳岬で、コンブ漁のアルバイトをしていた時のことだ。

毎朝3時ごろに起きて、浜辺に出る。

コンブを取った船が浜に帰ってくると、コンブを海岸に並べて干す。

昼から乾いたコンブを倉庫に運んで、仕分けをする。

仕事は連日夜まで続く。

住み込みで働いていた家には、祖父、父親と母親、息子夫婦が住んでいた。

息子夫婦には幼稚園に通う女の子がいた。

この子が面倒な子供だった。

学生の私にまとわりついて来る。

両親は可愛くて仕方がない様子だったが、私には全く可愛さの欠片も感じられない。

ただただ、面倒くさいガキだった。

 

働き出して半月ぐらいが経った朝。

早朝の仕事を終え、みんなで朝ごはんを済ませ、全員がテレビの前に集まってNHKの朝ドラ(北の家族)を観ている時だった。

この家族たちはNHKの朝ドラを観るのが日課だった。

アルバイトも一緒にテレビの前に座って、ドラマを観ていた。

すると、女の子がいつものように私の身体にまとわりつき、うるさい蝿のように絡みつく。

それでも、お婆ちゃんやお爺ちゃん、両親にとって、その蝿が可愛くて仕方がない様子。

連日、その光景が日課になっていた。

私は突然、蝿にキレたのだ。

「うるさい!」

私は女の子の耳元に、大声を投げつけた。

家族団欒の空気は凍りついた。

女の子はびっくりして、私から放れた。

家族にとって可愛い子供であり孫である生き物に罵声を浴びせた学生が、とても奇異な動物に感じられたに違いない。

大海原と向かい合って暮らしている、大らかでおっとりした人たちにとって、ホームシックに罹っていた若者を慮る余地など無かっただろう。

 

先日、孫たちが宮崎から大阪の吹田に引っ越してきた。

娘たちは新居の片付けで忙しいので、その間孫たちを預かることになる。

3月末に私は宮崎まで出かけてずっとお守をしていたので、もう孫たちでお腹いっぱいになっていた。

小さくて可愛かった動物たちも、時折憎々しげな人間に変身する。

甘やかすとつけ上がり、叱ると「爺が悪い」と反発する。

<可愛い率>は安部政権の内閣支持率のごとく半分以下に落ちていく。

 

<なんでこんなに 可愛いのかよ 孫という名の 宝物>

そういえば、老人たちとカラオケに行った時、私は好好爺ぶって、大泉逸郎の「孫」を唄っていたっけな。

author:金ブン, category:家庭の話題, 07:44
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地域社会

JUGEMテーマ:日記・一般

映画「団地」は奇想天外で面白かった。

藤山直美の演技が面白く、上海国際映画祭で最優秀女優賞を受賞して話題になった。

岸部一徳や斉藤工ら脇役の演技も面白い。

老舗の漢方薬局を閉店して団地生活を始めた夫婦が自治会長選挙のゴタゴタに巻き込まれる。

近所の人々の噂話や流言飛語に嫌気が差した夫婦は、薬の販売をしている斉藤工の依頼で五千人分の漢方薬を作り、その見返りとして死んだ息子に会えるという宇宙の彼方の星へ出発する。

団地の人間模様が描かれているが、後半は突如SFになって物語は終わる。

題名が「団地」だけに、狭い地域生活での悲哀がコメディタッチで描かれている。

会社を退職すると、地域社会との関わりが深くなってくる。

現役の時にはほとんど顔を合わさなかった人と、挨拶を交わすことが多くなる。

昨年の4月から妻が自治会の班長になった。

何年かに1回は役員(会長、書記や会計など)と班長の役が回ってくる。

毎月1回班長会議に出かけたり、回覧板を作成したり、自治会の催し物(盆踊りや老人会等)を手伝ったり、何かと面倒なのだと、妻は不満を口にする。

一番の問題は日本全体が抱える高齢化だ。

この地域に住宅が建ち始めてから、半世紀近くが経っている。

20代、30代から住み始めた人はすでに70歳以上になっている。

子供たちは成人し、家を出る。

夫婦のどちらかが亡くなり、独居老人が増える。

誰も住まなくなった空き家は雨戸が閉まったままで放置されている。

昨年、独居老人の家が火事になった。

空き家に泥棒に忍び込んだという事件もあった。

空き家の植栽が生い茂り、道路にはみ出していることが問題になったりする。

高齢化すると、自治会の世話役をする人が少なくなってくる。

順番にやってもらわないといけないのだが、病気や介護等を理由に辞退するのだ。

強制すると自治会を脱退したいと言い出す。

だから、65歳前の夫婦の家庭に役員や班長の役がすぐに回ってくると、妻は愚痴る。

地域の活動に、協力的で無い人が必ずいる。

家の駐車場からボンネット部分を道路にはみ出して車を停めている家庭があった。

道路が狭くなって、軽自動車以外の車はその前を通行できない。

縦列駐車すればギリギリで入るのだが、それが面倒なのだろう。

近所迷惑なので、自治会から注意するのだが、全く聞く耳を持たないという。

狭い住宅街の道をスピード出して、通行する車、犬の鳴き声が絶えない家、ゴミの収集場所に分別できていないゴミを捨てる家…。

毎月班長会に参加する妻は地域内の問題を、私に聞かせていた。

地域社会は我慢することで成り立っている。

今月、やっと班長の役目を終えた妻は胸をなで下ろす。

先日、近所の民生委員の人がやってきた。

妻に次の民生委員をお願いしたいとのことだった。

最近、民生委員という言葉を良く耳にする。

ネットで調べると、<民生委員とは民生委員法に基づいて厚生労働大臣から委嘱された非常勤の地方公務員です。 社会福祉の増進のために、地域住民の立場から生活や福祉全般に関する相談・援助活動を行っており、創設から今年で100年の歴史を持つ制度です。>と書いてある。

要は、地域社会の生活相談係だ。

その民生委員の方は70歳過ぎの方で、最近病気に罹られたこともあり、自分の後任を探しているところだった。

一時、妻は「地域社会に関わるのも大切なこと」と前向きだった。

だが、私の父や妻の母親の世話をしていることが考えると、難しいと判断したようでお断りした。

すると、民生委員の方は市役所の職員を連れて説得にやってきた。

固辞すると、「ご主人はどうですか?」と、矛先を私に向けてくる。

余りに執拗に強く勧められると、拒否反応が強くなってくる。

何度も訪問されたが、やがて諦めたようだ。

今住む家が<終の棲家(ついのすみか)>と思っている。

だから、地域のお世話をすることはひとつの役目だと思う。

70歳になったら地域の役に立てることを考えようと思うが、それまで健康でいられるか。

author:金ブン, category:家庭の話題, 10:00
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わが家の住宅事情

JUGEMテーマ:家庭

 

一生の中で、最も高価な買い物は<家>だ。

土地と建物を含めた買い物を、現金で買える人はほとんどいない。

長い人生の大半、ローンという重石を背負わないといけない。

 

わが家は阪神大震災の時、半壊の指定を受けた。

その頃、尼崎でパン屋をしていた両親はすでに70歳を過ぎていた。

もうそろそろ隠居させて、一緒に住もうと思っていた矢先だった。

 

二世帯住宅を建て、両親はパン屋を引退して同居した。

3階建にしたので、建築費がかなり高くなった。

当時の私の安月給では全額住宅ローンを背負うのは厳しい。

当時ローンの利率は4.3%だった。

所有権を分割して、同居する父親から3分の1の援助をもらった。

 

元々土地は昭和45年に父親が購入している。

昭和45年、私はまだ高校生だった。

その頃土地の周辺は田畑に囲まれていた。

やがて、この辺りもベッドタウン化が進み、分譲が始まっていた。

当時、坪約8万円程度だったという。

 

6年間、その土地は家を建てること無く、放置してあった。

昭和51年に父親がその土地に家を建てた。

私が社会人になって2年目だった。

周辺には住宅がぎっしりと建ち、近くにイズミヤがオープンしていた。

 

両親が尼崎でパン屋を続けたので、新築の家は私が結婚するまでひとりで暮らしていた。

近所の家庭では私の家より狭いのに、家族4、5人が住んでいた。

一軒家にひとり住んでいたのだから、贅沢なことだ。

友達を招いてドンチャン騒ぎしていた私は、近隣の人たちから道楽息子と見られ、冷たい視線を浴びていた。

 

社会人になってから6年目に結婚して、二人の子供が生まれた。

そして、神戸大震災で半壊するまで、その家で暮らしていた。

 

震災後3階建を建て、私の両親と私の家族4人の暮らしが始まった。

しかし、しばらくして母親が認知症に罹り、両親は岐阜に住む姉の家へ引っ越していった。

私たち4人家族の暮らしになった。

 

将来、娘は結婚してこの家を出ていく。

そして、息子が結婚して所帯を構えることになるだろう。

いずれ、息子夫婦は私たちと同居するかもしれない。

いろいろと青写真を描いてみるが、人生は何が起こるかわからない。

 

息子が15歳で亡くなった。

娘がこの家に住まないかぎり、将来この3階建に住む人は居なくなってしまう。

3年後、娘は高校時代の同級生と結婚し、家を出た。

 

息子の死から6年後、岐阜で暮らしていた母親が亡くなり、父親がわが家に戻ってきた。

それ以後、92歳の父親と私たち夫婦との3人暮しが続いている。

 

娘婿の会社は外資系で、異動が多い。

転勤族だ。

最初広島勤務だったが、1年も経たないうちに福岡に異動し、その1年後に現在の宮崎勤務になった。

3年の間に3回も転勤している。

転勤が多いと、子供たちが今後何度も学校を変わらなければならない。

そこで、娘たち夫婦は関西に帰ってくる決心をした。

娘婿が単身赴任することに決めたのだ。

 

娘婿の会社では、家族から離れて単身赴任を選択している社員が多い。

会社は単身赴任する社員ための福祉が行きとどいているという。

たとえば、月に数回の帰宅に対して旅費を負担するとか。

 

娘が孫たちを連れて関西へ戻ってくるとなると、住宅をどうするかが問題になる。

私たち夫婦と父親が暮すわが家で、3世帯が住むのは少し無理がある。

当面、賃貸マンションで暮らしたらどうかと勧めたのだが…。

 

日本人の根底には不動産神話があるようだ。

不動産さえを持っていると、安心できるような…。

 

娘たち夫婦は若いだけに、勢いがある。

いろいろと考えたあげく、結局、分譲住宅を買うことを決めた。

伊丹、宝塚、吹田、池田あたりの土地を探し、万博公園近くの土地を取得した。

土地が決まると、若者夫婦の行動は早い。

工務店を決めて、新築住宅建設に向かって突き進んでいく。

高額の借金を背負うことになるのだが、一生に一度の買い物を目の前にして、夢は膨らんでいくばかりだった。

 

3月末に家は完成し、娘たちは宮崎から移り住む。

すると、幸いにも娘婿が大阪に転勤になった。

関西への転勤願いを出していたのだが、会社が認めてくれたのだ。

 

先週の土日を利用して、娘たち家族が帰ってきた。

家族が揃って、家の壁塗りをするためだ。

そんな儀式があると、工務店がいう。

 

娘婿の両親と私たち夫婦も参加して、壁塗りをした。

 

 

新居を前にして、娘たち夫婦と孫たちは楽しそうだった。

やがて、新居は娘たちの安住の地になっていくのだろう。

人生で一番幸せな時間なのかもしれない。

 

 

最近、私たちの自治会内に空き家が増えた。

子供たちが家を出て、やがて夫婦が亡くなり、住む人が居なくなってしまったのだ。

現在、全国に800万戸の空き家があるという。

そして、15年後には3戸に1戸が中古の空き家になるといわれている。

わが家もその運命をたどるかもしれない。

 

 

 

author:金ブン, category:家庭の話題, 09:48
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福井の友達

JUGEMテーマ:家庭

 

「あの子、本当に純粋な子なのよ」

妻が大学時代の友達Tちゃんをそんな風に表現する。

 

先月、妻が卒業した美大の同窓会があり、親しい友人が集まった。

友人8人は京都で1泊宿泊し、妻はTちゃんをわが家に連れて帰宅した。

Tちゃんは2泊し、福井へ帰って行った。

帰る時、Tちゃんは遊びに来てねと言う。

それで、今週夫婦で福井の自宅を訪れた。

 

Tちゃんの両親はすでに他界している。

母親は陶芸家で、父親が銀行員だった。

その母親の影響で、TちゃんとTちゃんの兄も陶芸家だ。

Tちゃんは去年まで大学で陶芸を教えていた。

今は引退して、仕事はしていない。

 

とにかく、とっても話しやすい人だ。

私の家に泊まっている間、私ともよくしゃべった。

飾り気が無くズケズケといろんなことを訊いてくるが、全く嫌味が無い。

妻が評するとおり、純粋で透明感がある人だ。

 

私が悩んでいる股関節の痛みを告げると、いろんなストレッチを教えてくれた。

ヨガを習っていたらしい。

「どの辺が痛いの?」と訊くので、恥骨のあたりを指し示すと、「おチンチンの横か?」と言い、私が触っているところを自分も指で押さえたりするのだ。
(もちろん、やらしい手つきではありませんぞ)

今まで整形外科、整骨院、整体で恥骨のあたりが痛いと言っても、その患部を押さえてくれた医者や施術師はいなかった。

 

Tちゃんは中国人と結婚し、男の子がふたりいる。

子供は成人した長男と大学院の次男だ。

長男は数年前腰の痛みを訴え、いろんな医師に診てもらってが、結局治らないそうだ。

そのため、精神的に凹んでしまい、その影響で就職浪人している。

そんな経験もあり、私が股関節の痛みで悩んでいるのを聞いて、真剣に診てくれたようだ。

 

ご主人Uさんは大学生の時中国から留学生として来日し、Tちゃんと知り合った。

大学を卒業して就職先に困っている時、Tちゃんが陶芸関係の知人を通じてS社を紹介したそうだ。

S社では中国人を採用するのは初めてらしく、社長曰く渋々引き受けたという。

 

ところが、Uさんは頭脳明晰で、優れたビジネスマンに成長した。

Uさんはその後中国に工場を作り、中国での子会社企業の社長になっている。

福井本社では専務執行役員の地位にいる。

そんな活躍に当時迷いながら採用した元社長は「今では採用したことを誇らしく思っている」と、業界誌に書いている。

 

妻はTさんの夫のことに関して、Tちゃんから詳しく聞いたことが無かった。

今回、私がTちゃんにいろんなことを訊いている時に、妻は初めてご主人の経歴などを知った。
Tちゃんも出世した夫のことを自慢げに語ることも無かったようだ。

 

現在、Uさんはほとんど中国に居て、日本にはたまにしか帰ってこないそうだ。

帰ってきても、会議や打ち合わせなどで、夫婦の時間もわずかになってしまう。

でも、その生活をお互いに認め合っているという。

だが、Uさんは激務の影響から心臓を悪くしていると、Tちゃんは心配げに話していた。

 

今回、1泊2日の短い期間だったが、Tちゃんに福井を案内してもらった。

東尋坊の夕日を見て、近くの温泉に入った。

 

 

翌日、恐竜博物館に行き、永平寺を参拝した。

 

 

 

最後に、Tちゃんが大学で陶芸を教えていた時に制作した、陶芸を散りばめたタペストリーを見学した。

3階までぶち抜いたエントランスに、巨大なタペストリーが掛けられていた。

制作に7年間掛かったという。

 

 

Tちゃんの家のインテリア。

すべて、オリエンタル調。

 

自宅でひとり、墨絵を書いていると話す。

 

今回、陶器のインテリアを3点いただいた。

 

また、12月中旬わが家に泊まりに来るというので、私は楽しみにしている。

author:金ブン, category:家庭の話題, 09:37
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還暦を迎えた妻

JUGEMテーマ:家庭

 

<ゆり子は、夏の朝、庭にユリの花が咲き誇る中、生まれました。

そして、ゆり子と命名されました。>

 

猪瀬直樹は妻ゆり子の葬儀で、挨拶する。

ふたりの出会いは大学生の時。

「目と目が合った瞬間、光の速度で一心同体で生きると決めたんです」と、運命的な出会いを語る。

 

大学卒業後、二人は上京し、同棲生活を始める。

猪瀬は作家を目指すが、なかなか目が出ず、今で言うフリーターとなる。

2人の子供に恵まれるが生活は安定せず、ゆり子が小学校の教師になり猪瀬を支え続ける。

徐々に作家として認められるようになり、「ミカドの肖像」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞して人気作家の仲間入りをする。

 

2001年に小泉内閣の行革断行評議会のメンバーになってから、政治の表舞台に顔を出す。

道路公団推進委員会での活躍がマスコミに取り上げられ、小泉政権の行政改革推進の立役者となり注目される。

 

その頃の猪瀬直樹は弁舌に切れ味が良く、私は大きな期待を抱いていた。

道路族や道路に絡む建設業などのしがらみが無い民間人だから、思い切った改革をやり遂げることが出来たのだろう。

その後、石原都知事の下で副知事に就任し、石原都知事辞任の後東京都知事に立候補する。

 

その頃から、人生のバイオリズムが狂ってきた。

東京都知事に当選した翌年、ゆり子に脳腫瘍が見つかり余命宣言を受ける。

オリンピック招致活動の真っ最中での出来事だった。

2020年東京オリンピック決定の朗報を知ること無く、ゆり子は亡くなった。

 

オリンピック招致決定と同じ頃、徳洲会グループからの資金提供問題が明るみに出て、都議会で袋叩きに遭う。

都議会の席上5000万円に模した発泡スチロールを無理やり押し込む情けない姿が、再三テレビに映し出される。

そして、都知事を辞任する。

 

その1年後に、妻ゆり子との思い出を綴った本「さよならと言ってなかった」を上梓する。

 

作家城山三郎の「そうか、君はもういないのか」や映画監督新藤兼人の「愛妻記」など、先立った連れ合いへの思い出を綴った本は多い。

甘ったるい本を読む気がしなかったが、図書館で何気なく見つけたこの本を手にした。

妻に先立たれた訳でもないが、妻の還暦の誕生日が近付いていたから、読む気になった。

 

結婚は出会い頭の交通事故のようなものだと云われる。

いろんな偶然が重なって、男女が結びつく。

 

私たちは社内結婚だ。

妻の父はK電鉄会社の子会社に勤めていたため、妻は紹介でグループ会社のK社に入社した。

妻が入社する5年前に、私はK社に入社している。

 

私は首都圏のT旅行会社に内定していたが、卒業旅行で立ち寄った東京の雰囲気が合わないような気持ちになり、帰阪してすぐに内定を辞退した。

そして、一旦辞退していた関西が活動拠点のK社へ再度内定をお願いしたのだ。

何とか内定を復活してもらい、K社に入社した。

もし卒業旅行で東京に立ち寄ることが無かったら、私はT社に勤めているのだから、妻と知り合うことも無かっただろう。

 

K社に入社後、私は旅行部ではなく、広告代理店部に配属になった。

K社は旅行部の他に、電車の広告を扱う広告代理店部と駅の売店などを運営する商務部があった。

本来、旅行業を志望して入社したのだから、まさか旅行ではなく広告の仕事をすることになるとは思わなかった。

この配属が無かったら、妻と親しくなる機会は無かった。

 

知り合って40年が経った。

今週、妻は還暦の誕生日を迎えた。

貧しい時から連れ添った妻を「糟糠(そうこう)の妻」という。

そんなに貧しい思いをさせた記憶はないが、阪神大震災や息子の死を経験し、苦楽を共にした同志ではある。

 

長い結婚生活は倦怠期、冷静期、沈滞期を経て、お互いが空気のような存在になるようだ。

今は、居なくては困ってしまう。

 

不満は無いが、ただひとつ困ることがある。

妻は霊感が強いことだ。

たまに幽霊を見たと言い、幽霊を見た時は身近な人が死ぬとか言ったりする。

気持ち悪いではないか。

身近な人が私でないことを祈るばかりだ。

 

<トミコは初雪が降る頃、富山で生まれました。

そして、富子と命名されました。>

妻の葬儀ではそんな挨拶しようと思っているが、先に私が天国へ行きそうな気がする。

 

妻の誕生日に食べた和食(宝塚・花水木)

author:金ブン, category:家庭の話題, 09:50
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十三回忌

JUGEMテーマ:家庭

今週「コード・ブルー」というドラマの最終回が放映された。

<ドクターヘリ>をテーマに、緊急救命センターで働く医師たちを描いている。

医師に扮している俳優が若すぎて、もうひとつ現実感に乏しい気がするのだが…。

13年前の2004年11月、息子が救命救急ルームに入っていたことを思い出した。

阪大病院に入院してから、CT画像検査の結果、息子の胸部に大きな腫瘍があることが判った。

生体検査(生検)を行った結果、腫瘍は横紋筋肉腫だと診断された。

抗癌剤投与で腫瘍を小さくしていくことを、担当医から伝えられた。

ところが、担当医と外科医から再度検査をしたいと言われた。

最初の生検は胸部の腫瘍から転移していたリンパ腺から組織を採った。

その結果腫瘍の種類が判ったのだが、今度の生検では原発病巣から直接組織を採って、詳しく調べると言うのだ。

私も妻も「病名が判ったのだから、もうそれで良いのでは」という気持ちだった。

中学生の息子に再度検査の苦痛を与えることが不憫だった。

だが、医師から<横紋筋肉腫には主に胎児型と胞巣型と、2つの種類があって、その種類によって化学治療の薬の選び方も変わってくる>との説明を受け、2回目の生体検査を承諾した。

11月17日に2回目の生体検査が行われた。

その日の夕方、会社で仕事をしていた私の携帯電話が鳴った。

妻からだった。

担当医師が「説明したいことがあるから、出来るだけ早く病院に来て欲しい」と言っているという。

私はすぐに病院へ向かった。

病院に到着すると、妻と娘と担当医が私を待っていた。

担当医の説明によると、生検の途中で自発呼吸が出来なくなり、急きょ気管チューブを挿入し、局部麻酔を全身麻酔に切り替えたという。

生検の際、仰向けに寝かせて切開を行っている内に、腫瘍の重みが気管を圧迫して自発呼吸が困難になったとのことだ。

それほど、胸部にある腫瘍が大きくなっていた。

生検前の説明ではそれほど緊迫している状態ではなかった。

だが、ガンの進行は予想以上に早くなっていると、担当医はいう。

「一刻も早く抗癌剤の投与をして、腫瘍を小さくする必要がある」と、医者は告げる。

説明を受けた後、私たちは息子が運ばれている高度救急救命センターに案内された。

最初に救急救命センターを訪れた体験を、私は以前ホームページで紹介している。

久しぶりに読み直してみると、その時の緊迫感が思い出された。

<高度救急救命センターは1階通用口の横にある。
面会に来るとき、いつもその前を通る。
時折救急車が止まって、救急患者を運び入れているのを、私は何度か見ている。
自動扉を入ると、長椅子が5脚ほど置かれた待合室がある。
そこで指定の草履に履き替え、手を消毒しマスクをしてから入室する。
入室出来る時間は原則、午後1時から45分までの一日一回だけである。
それに面会出来るのは二人だけ。
「準備が出来次第呼びますから、ここで待っていてください」
そういって、T医師はセンターの中へ入っていった。
私たち3人は長椅子に座った。
何組かのグループが面会の許可を待っている。
どの人たちも不安そうな面もちに見える。
待っている人々は時折声を押し殺して会話を交わし、みんなうつむき加減で座っている。
警察官と救命士が現れて、入り口近くで家族を交えてヒソヒソと話をしている。
交通事故なのだろうか。


やがて、T医師が現れた。
「それじゃ、どうぞ入りましょう」
私がうなずくと、マスクと手の消毒を促し、中へ案内した。
通常は二人しか面会出来ないのだが、その時は妻と娘と3人で入った。
部屋の両端にベッドが並べられているが、それぞれカーテンで仕切られていて、全く患者たちは見えない。
たくさんの蛍光灯が天井を這い、夜と思えないほどの明るさだった。
ピッピッという機械音が聞こえてくる。
部屋の真ん中で、医師や看護士たちが忙しく動き回っている。
至るところに医療機器が並んでいる。
ここには生きること、死ぬことの意味を問う余裕なんてない。
ただ、心臓の鼓動を聞くために、全神経を集中している。


T医師が中央まで進み、カーテンを開けて入る。
私たちが続いて入った。
淳一がベッドに寝ている姿を見て、私は愕然とした。
「なんで、こんなことに」と言って立ちすくみ、涙がこぼれ落ちてくる。
妻はベッドに近づき、淳一の手を触った。
淳一は薄目を開いて、眠っている。
両手と両足はベッドに縛られた状態で、口に管が挿入され、点滴が数本ぶら下がっている。
口からの管はベッドの横にある機械につながり、そこに取り付けてある風船のようなものが、 スーハー、スーハーと淳一の呼吸に合わせて、膨らんでは縮み、縮んでは膨らんでいる。
枕元に置いてある機械は淳一の状態を数値やグラフで表している。
ピッピッと規則正しく、機械音を刻んでいる。
「少し、驚かれたと思います。麻酔で眠った状態です。容態は安定しています。眠っている間、手で気管のチューブや点滴の管を触らないように縛っています」
不安げな私たちを安心させるためか、T医師は少し笑みを浮かべた。
「ここは24時間、人が付いていますから、異常があればすぐに対応できることになっています」
突然、となりのベッドから声がする。
「お爺ちゃん、何で死のうとしたんですか」
救命士か警察官のようだ。
患者に声を掛けているようだが、反応は聞こえてこない。
「あのう、これは何ですか」
私は涙を拭いながら、淳一の足の親指に付いている線を指さして訊ねる。
「ああ、これはセンサーで血液の酸素濃度を感知するものです。この数字がそれです」
T医師は98、96、99、97と時折変化する数字を指し示す。
数値が極端に下がってくると、ピッピッと音がなり危険を知らせる。

この時から10ヵ月後の9月、この音を聞くことになるのだ。


T医師は点滴の状態を確認してから、「後で来ます」と言ってその場を立ち去った。
妻と亜由美は涙を流しながら、淳一の手足や頭をさすり、私はただ呆然と立ちつくしている。
つい3ヶ月前まで、蒸し暑い体育館を走り回っていたではないか。
バスケットのチームの中で、一番タフと言われていたではないか。
私はドロドロとした沼に立っている気分だった。
悪い夢を見ているのではないだろうか。
突然、点滴の機械がピーピーと鳴った。
K看護士が現れて、点滴が無くなっているのを確認する。
「身体の向き、しんどくないかな」
看護士は淳一の寝ている姿勢を気づかう。
点滴を替えながら、「よく眠ってはりますね」という。
張りつめた空気の中で、拍子抜けするような穏やかな口調だった。
今晩淳一の担当で、終夜付いてくれるという。
K看護士はこの高度救急救命センターいる間、淳一の担当として頻繁に妻や娘と言葉を交わしていた。
小児病棟に移った後も、時折6階までお見舞いに来てくれた。
亡くなる前日、最後の面会者になったのもこのK看護士だった。


10分程すると、前日生検の説明をした外科のK医師が現れて、状況を説明するという。
私たちは高度救急救命センターの入り口近くの通路で、K医師から説明を受けた。
そこにもライトビュアーがあり、K医師はCT画像を目の前にしながら立ったままで話した。
通路なので、頻繁に医師や看護士たちが私たちの横を通る。
K医師の話はくどく、弁解めいていた。
<腫瘍が予想していた以上に大きくなっていて、生検の途中で気管を圧迫する事態が生じました。局部麻酔で行っていましたが、急遽気管挿入して全身麻酔に切り替えました。縦隔から組織は採取しました>
T医師が説明していたことを繰り返した。
麻酔のミスではないのだろうか。
私の頭によぎった。


30分程度の立ち話だったが、私は疲れていた。
K医師が立ち去ると、入れ替わりにT医師が現れて奥の部屋へ案内した。
「人工呼吸器を付けた状態を見慣れていない人にはかなりショックを受けられると思います。ここでは日常茶飯事ですから」
T医師はうなだれている私たちを懸命に慰めようとしている。
「今は落ち着いていますので、任せていただいて大丈夫ですから」と促されて、私たちは家に帰ることになった。
時計は午後10時を回っていた。>

3週間、高度救急救命センターで治療して、小児科の病室に移った。

ガンは少し小さくなり、その後抗癌剤投与が続けられた。

その副作用で、息子の髪の毛が抜け始めた。

先週の9月16日は息子の13回忌だった。

丸12年経っているのに、バスケットの仲間とその親、先生たちが次々とお参りに来てくれた。

同級生の中には結婚して子供が生まれた仲間もいた。

もう28歳になるのだ。

命日の10日前、息子の夢を見た。

亡くなってからは全くと言っていいほど、息子の夢を見たことが無かった。

久しぶりに見た息子は闘病中の姿だった。

抗癌剤の副作用で、全く髪の毛が無かった。

最後の1年の印象が強くて、闘病中の姿でしか現れない。

author:金ブン, category:家庭の話題, 09:00
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妻との会話

JUGEMテーマ:家庭

 

元旦の新聞の人生相談に、<聞き上手>の悩みが載っていた。

相談者は人の話を聞く際、3つのことに気を付けているという。

「否定しない」

「気持ちをわかってあげる」

「最後まで聞き、自分の意見をなるべく言わない」

 

そのお陰で、「聞き上手」と言われるようになった。

ところが、友人に理解を示すと、自分も同じ意見だと思われてしまう。

たとえば、友人が悪口をいっている人を自分も嫌っていることになってしまうとか。

「聞き上手」が高ずると、自分の意見に関係なく同意見だと思われる。

これが精神的に疲れると、その相談者はいう。

 

妻は「聞き上手」の部類だ。

話し手になるより、聞き手になる場合が多い。

最近、この相談者と同じ悩みを漏らすことがあった。

 

隣近所の人たちと、玄関先で話すことがある。

すると、その場所にいない近所の人の悪口を頻繁に言う人がいるという。

黙って聞いていると、同調したような感じになってしまう。

それが嫌で、あまり外に出たがらないのだ。

 

家でも、妻は聞き役にまわることが多い。

私は文化財ボランティアのことや英会話でのことを気の向くままに話したりする。

妻は「へえ、そうなん」とか相槌を打ちながら、聞いている。

聞き役でいる方が気楽なんだろうと思っていたのだが…。

 

会話というものは聞いてばかりでは楽しいはずがない。

 

退職後妻と過ごす時間が多くなり、自然と会話する時間も増える。

だが、他愛の無い内容だけに、聞き流すことも多くなってしまう。

 

日頃、良く妻から言われる。

「私の話を聞いていない」

確かに、私は妻の話を聞き洩らすことが多い。

私はぼんやり考え事をしていることが多いし、テレビを観ている時は番組に熱中している。

そんな時、妻が何やら私に話しかけてくるのだが、よく<うわのそら>状態になっている。

私は「そう」「ふ〜ん」「そうやな」とか、妻が話している内容が分からないままに返事をすることがある。

妻はそれを察してか、時折「私の話を聞いていない」というのだ。

 

悪気があるわけではない。

会話に気持ちが入らないまま、話の内容が素通りしてしまう。

 

この正月、帰省した娘が妻と話していた。

会話の途中で、妻が言葉に詰まった。

話そうとして、単語が出てこなかったようだ。

「ええっと、何やったかな」

妻はしばらく考えていたが、その単語が思い出せないらしい。

妻の言葉を待っていた娘がじれて、言う。

「お母さん、言葉出てけえへんの?ちょっと、危ないのと違う」

すると、妻が吐き捨てるように返す。

「だってね、1日、私はね、お父さん(私)とおばあさん(実母)とおじいさん(義父)の3人しか、話さないから。頭の回転が悪くなっているの」

 

横で聞いていた私は妻の言葉に背筋が冷たくなった。

娘に言っているようで、その言葉は私に向かっている。

会話の量の少なさとともに、頻繁に話を聞き逃す私の態度を諌めているようだった。

 

ちゃんと聞き役になってやらないといけない。

35年も連れ添って今さらと言われるだろうが、気を入れて会話をしないといけない。

でないと、娘が言う<危ない状態>に陥ってしまう。

 

そうして、年始早々から反省したのでありますが…。

歳を重ねるごとに、注意散漫になる傾向がありまして。

反省しながらも、つい聞き逃してしまう有り様でして…。

 

とりあえず、妻の存在を軽んじるような態度だけは改めなければならない。

そんな思いもありまして…。

ブログで書いている<愚妻>を<妻>と改めましたのであります。

author:金ブン, category:家庭の話題, 17:41
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初体験

JUGEMテーマ:家庭

今週、愚妻は免許を取って以来、初めての体験をした。

悔しい体験である。

 

その日、私は義母と愚妻とで、晩ご飯を外食することに決めていた。

いつもは何をどの店で食べるかなかなか決まらなかったが、その日は義母の提案で<和食さと>にすんなりと決まった。

連日の暑さで、脂っこいものよりあっさりした和食を好んだのだろう。

 

自宅から車で約5分走ったところに、目的の<さと>がある。

以前にも何度か訪れたことがある。

運転するのはいつも愚妻だ。

 

県道を下ると、その店は右手に見える。

県道沿いに入口があり、2車線道路を右折して横断し入口に入ることが出来る。

交通量が多いときは、危険だ。

そこで、いつも手前にある交差点を右折し、別の小さな入口から駐車場に入る。

信号のある交差点を曲がった方が安全という判断だ。

 

その日も信号が青になっている交差点を曲がり、入ろうとした。

突然、歩道から警察が現れた。

バインダーを抱えて、こっちを向いて手を振っている。

愚妻は車を止めて、パワーウインドウを下ろした。

「ここね、右折禁止なんだけど、どこへ行くつもり?」と巡査。

「えっ、ここ、いつも右折していますし、みんなここを曲がってますよ」と、愚妻が訴える。

「標識を見てもらったら、判るんですけど」

年配の巡査はそう言って、車を<さと>の駐車場へ止めるように指示した。

こんな時の、冷めた警官の態度が気に障る。

「どうしたん?」と、助手席に座っている義母が心配そうに言う。

私は後ろの席に座り、注意だけに終わるかなと期待した。

だが、無理だった。

 

警官と愚妻は標識を見るために、交差点の向こうまで歩いていく。

愚妻は不満そうな表情を浮かべて、車まで戻ってきた。

悔しくて仕方が無いだろう。

免許を取得して40年近くになるが、反則切符を切られるのは初めてなのだ。

ずっと、ゴールド免許だった。

それに、先月長年のゴールド免許に対して、特別表彰されたばかり。

 

私なんぞ、免許を取って以来、何度も違反をして青紙を貰っている。

私から見れば愚妻の性格は恐ろしく慎重なので、交通違反をすることは無いだろうと確信していたのだが…。

 

でも、今回のケースは何とも納得がいかない。

常識で考えれば、<さと>に入るのに、信号のある交差点を利用した方が安全なのだ。

2車線の道路を横切って入るほうが余程危険だ。

その点を腹立ちまぎれに愚妻は警官に指摘したようだが、信号のない道路を横切って入ることが正解だと、警官は応じる。

おそらく、警官もそれが安全だと思っていないだろう。

標識で決められているので仕方が無いと考えているはず。

右折禁止の標識を確認するのはかなり難しい。

 

店側も店側で、なぜあんなところに入口を作っているのか?

出口専用なら解るのだが。

<さと>にその点を毒付いてやろうと思ったが、もう二度と来ることは無いので止めた。

 

右折禁止の反則金は7000円也。

<さと>で食べた晩御飯が4500円也。

高い晩メシになった。

 

「事故を起こしたと思ったら、安いもんや」と義母。

反則切符を切られた人への定番の慰め言葉もあまり効果が無く、愚妻はほろ苦い晩御飯を食べることになってしまった。

author:金ブン, category:家庭の話題, 17:47
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白内障の手術

JUGEMテーマ:家庭

 

「家内が白内障の手術をするんです」

英会話に参加しているお友達の老女おふたり(70歳後半)に、私は話した。

すると、ひとりが「そう。私も手術をしたわ」と言い、もうひとりの老女も「私もずいぶん前にしたわよ」と返す。

 

白内障の発症率は50歳代で約65%、60歳代で約75%、70歳代では約80%、80歳代になると、ほとんど全員に症状がみられるという。

愚妻は59歳だから、白内障に罹ってもしかたが無い年齢といえる。

 

白内障とは、目の中にある水晶体が白く濁る病のことで、加齢により発症することが多いという。

老化現象の一種というわけだ。

治療法として、目薬を用いる薬物療法もあるが、根本的には治癒しない。

最近では、濁った水晶体を人工の水晶体に入れ替える手術が一般的に行われている。

目玉にメスを入れるなんて恐ろしい手術だと思うのだが、大学病院や公立の総合病院に限らず、町の眼医者でも頻繁に行われているようだ。

 

それを可能にするのも、医療機器の進歩があるからだ。

顕微鏡を用いながら目玉のレンズを交換するという細かい作業が、医療工学の発達で正確に行うことが出来る。

当然、眼科医の腕によるところも大きい。

微細な作業には熟練した技術が必要だ。

 

家の近くに、日帰り白内障手術をしている、評判の眼科があった。

ビルの2階を借りて開院していたのだが、数年前に自宅兼医院を建て、場所を移した。

どうも、その辺りから近所の評判が悪くなったらしい。

もっと評判の良い病院が増えたのか、患者の対応が悪かったのか、原因は判らない。

医者の評判はすぐに広がるものだ。

 

先日、義母が眼球に出来た良性の腫瘍を摘出する手術を受けた。

近くの整形外科から紹介された、駅近くの眼科だった。

患者の応対が丁寧だったことと、ネットで調べた評判が良かったことで、愚妻もその眼科医院で手術を受けることになった。

 

その眼科の院長は女性で、白内障の手術は主にその旦那の副院長が行っている。

副院長は白内障の手術では評判の医者だそうだ。

経歴にこだわる訳ではないが、やはり経歴は重要な要素だ。

 

東京大学工学部の精密機械科を卒業し、その後大阪大学医学部に再度入学している。

医者として、大阪大学医学部付属病院眼科、関西労災病院眼科、国立大阪病院眼科などで勤務している。

眼科で有名な大阪の病院で、現在も眼科部長として働いている。

なんでも、やしきたかじんの目の手術をしたとのことだ。

 

手術当日、14人の患者が来院していた。

ほとんど、白内障の手術だった。

出来れば付き添い人と一緒に来てくださいということなので、患者のほぼ倍の人数が受付で待っていた。

それにしても、1日に14人もの手術を行うとは、かなり繁昌している医院だ。

それも、手術を行うのはすべて副院長のようだ。

 

手術の時間は20分程度だ。

患者は順番に呼ばれ、手術室のある2階へ案内される。

愚妻も指定された時間のすこし前に、看護師から名前を呼ばれて手術室へ上がっていく。

愚妻の話によると、2階には待合室があって、5人が椅子に座って待っていた。

待っている間、ひっきりなしに麻酔の目薬を差しつづける。

順番がやってくると手術室に入り、顕微鏡の前に座り、水晶体を交換する手術を行う。

手術はあっという間に終了し、痛みは全く感じなかったという。

 

私は受付で待っていいたのだが、手術を終えた患者が次々と大きな眼帯をして手術室のある2階から降りてくる。

患者は手術費用を支払って帰っていくのだが、その金額はそれぞれ違う。

年齢による保険の負担割合によって異なるのだが、愚妻の場合は3割負担で約53000円を支払った。

実際の費用は約170000円程度になるのだろう。

驚いたことに、ひとりの女性が受付で350000円の札束を渡していた。

その女性は保険の利かない遠近両用のレンズを入れたので、そんな金額になったらしい。

片目だけ遠近両用にするわけにはいかず、後日もう片目も手術することになり、合計700000円を支払ったようだ。

金持ちなのだろう。

 

術後は、安静にして、目を清潔にするよう注意しなければならない。

この医院では、特に細心の注意を払っている様子。

手術の翌日は朝から、診察を受けることになっている。

9時半に医院に入ると、手術をした患者と付き添いの人が集まっていた。

 

執刀者の副院長先生が術後の診察をする。

そして、手術を受けた患者を集めて、副院長先生自らが術後の注意や点眼薬の付け方などを指導する。

「安静度表」に基づいて、してはいけないことを説明した。

洗顔や洗髪は術後3日間、飲酒や自動車の運転は2週間、運動や化粧は28日間禁止されている。(ご丁寧に性生活も2週間禁止と記述してある)

ひとりの男性患者が飲酒はどうしてもダメですかと尋ねていたが、副院長先生は苦笑いしながら、我慢してくださいと応えていた。

 

女性の院長と副院長はご夫婦なのだが、どちらも丁寧な語り口で好感が持てる。

手術当日の夜、院長さんから「いかがですか?」との電話をいただいた。

院長自ら、患者さん全員に電話を掛けているようだ。

このきめ細かい対応が患者さんを増やしているのだろう。

病院経営にはやはり営業の心得が必要なのだ。

 

60歳代の発症率が75%を超えているというのだから、私もいずれは白内障の手術のお世話になるのだろう。

出来れば、自己負担割合が1割の後期高齢者になるまで我慢したいものだが…。

author:金ブン, category:家庭の話題, 17:26
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