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ウ○コ置き去り事件

JUGEMテーマ:日記・一般

 

ボブ・ディランがノーベル文学書に輝いたり、将棋のA級棋士がカンニングで出場停止になったり、今週は私にとって書きたい話題が多かったのだが…。

そういう話はまた後日書くとして、今週はなぜか、ウ○コの話だ。

 

きっかけは友人のブログ。

トイレでウ○コを流さない輩のことが書いてあった。

この種の下ネタに、私は大きく反応する。

私も思い出すことがある。

京都で所長をしている頃だから、10年程前の話だ。

 

ある日、私は大をしようとトイレに入った。

いつもは開けてある便器のふたが何故か閉じられていた。

用を足そうと、便器のふたを開けた。

私はギョッとした。

流されてないのだ。

クソッ。

流し忘れる奴がいたのだ。

これが世に言う「ウ○コ置き去り事件」だ。(大げさか)

 

事務所に戻って、社員のS君に小声で言った。

「誰か、大便を流してない奴がいるな」

すると、「そうでしょ、最近私僕も何度か見てますよ」と、S君が小声で返す。

その小声を横で聞いていた(聞こえるような小声)社員のT君も同調する。

「私も遭遇しました。便器が閉まっている時に限って、流されてないのですよ」

こういうことには異常な反応をする私は他の社員に密かに訊いてみた。

やはり<流れていないウ○コ>を見たという。

私が知らなかっただけで、どうもこの現象は少し前から見られるということだった。

 

事務所があるビルの3階には、わが社ともう1社入居している。

犯人はとなりの会社の社員なのか、それともわが社の社員なのか。

まさか、トイレを流さないような社員がわが社にいるはずがないと、当初はとなりの会社の社員を疑っていた。

ところが、どうもわが営業所の社員じゃないかという疑いが出てきた。

 

この現象が起き始めたのはごく最近のことだった。

今まで、こんなことは無かったのだ。

そういえば…。

その頃我が営業所にふたりの新人が入社していた。

ひとりは大学を出たばかりの若手社員H君で、もうひとりは広告ポスター類を電車の車庫へ配達している、アルバイトのオジサン。

S君がいうにはふたりが入社してから、この現象が起き始めたという。

疑惑の目はこのふたりに向けられた。

 

初めはアルバイトのオジサンを疑った。

オジサンは滋賀県田舎に住んでいるので、水洗便所を知らないのではないか。

それとも、還暦を過ぎたお年なので、うっかり流し忘れるのではないか。

そんな疑問を思い浮かべた。

それにしても、うっかりが多すぎる。

本人に訊けば良い話だが、還暦過ぎの先輩に<ウ○コ、流してはりますか?>となかなか訊きづらい。
アルバイトのオジサンといっても、前職は大手住宅メーカーの開発部長だった人だ。

頭脳も体力も、私以上だ。

 

数日後、オジサンの疑いが晴れた。

朝の9時半ごろ、トイレから戻ってきたS君が私の机のそばにやってきて、「流れてません」と小声で言い、「犯人はどうもHですね」と付け加える。

なぜなら、アルバイトのオジサンは10時出勤で、その時間にはまだ出社していない。
H君は京都のD
大学を卒業した後、公務員試験に挑戦するも失敗し、わが社に応募してきた。

本社で採用され京都に配属されたのだが、どうも性格が根暗な感じで、営業会社には不向きじゃないかと思われた。

H君が犯人と決まった訳でもない。

となりの会社の社員の可能性もある。

H君に直接確かめたらいいのだが、新入社員に「君、トイレでウ○コをちゃんと流してる?」と訊きにくい。

 

そこで、ひとつの案を思い付いた。

営業所では月に1回、全体ミーティングをしていた。

私はその席で注意事項として話すことにしたのだ。

ミーティングの冒頭、こんなことを言ったと思う。

「最近、トイレを流していない人がいるようです。わが営業所の社員ではないと思いますが、流し忘れの無いように注意してください」

数人の社員がくすくすと笑っていた。

会社のミーティングで、ウ○コを流していないことが議題されたのは、歴史上初めてのことだろう。

ギネスブックに載りそう。(これも大げさか)

 

その日以来、ウ○コを置き去る現象はぱたっと無くなった。

しばらくしてH君は大阪本社に異動となり、数ヵ月後に退職した。

この話はその後、飲み会の肴になった。

なぜ、自らのウ○コを流さなかったのか。

不可解なことほど、酒の肴になる。

「H君の家の便器は蓋を閉めたら、自動的に流れるようになっているんとちゃいますか」とか、「自分のウ○コを他人に見せたかったんとちゃいますか」とか。

子供がウ○コの話を嬉しそうにするように、大人になっても下ネタで盛り上がるのだ。

(盛り上がっていたのは私だけだったかもしれないが)

 

その後、このトイレは営業所内に別の話題を提供してくれた。

うん、聞きたい?

余りにも汚い話なので、<清く、正しく、美しく>をモットーにしている当ブログに記すのは気が引ける。

その事件名で大方の想像が付くだろう。

<ウ○コ洪水氾濫事件>である。

 

食前、食後の方には失礼しました。

author:金ブン, category:会社の話題, 11:12
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ついに、退職
JUGEMテーマ:日記・一般

退職した翌日、ハローワークに出かけた。
若い担当者が雇用保険の受け方を丁寧に説明してくれた。
続いて、市役所の国民年金課に立ち寄り、愚妻の年金手続きの説明を受けた。
 
バイクで帰る途中、ラウンドワンの前を通った。
オープンして5年以上経っているが、一度も入ったことがなかった。
土日に前を通ると、駐車場にたくさんの車が並び、かなり賑わっている様子だった。
今日は平日なので、入口辺りは静かだった。
閑散とした駐車場の隅に、バイクを止めた。
 
恐る恐る中へ入った。
1階はカラオケとゲームセンターだ。
カラオケルームはどこも空いているようだ。
受付にも客はいない。
ゲームセンターを覗く。
5人の客がゲームをしていた。
その中に、私と同年輩らしき老人が麻雀をしていた。
老人はうろついている私をチラッと見る。
私は目が合うのを避けた。
 
エスカレータに乗り、2階に上がる。
ビリヤード台や卓球台があったが、客はいなかった。
7階まで上がると、バッティングマシーンとダーツ台が並んでいる。
ボールを打つ金属音が響いていた。
ひとりの若者が黙々と投げ出されるボールを打っていた。
ダーツに興じる客はいない。
投げられることの無いダーツ台が墓石のように並んでいる。
4階のボーリング場に下りてみた。
電気が消されたレーンの中に、1レーンだけ照明が灯っている。
男女のペアが倒すピンの音だけが聞こえる。
 
どの階も客は少なく、閑散としている。
土日や夜は仕事休みのサラリーマンや学生たちが順番待ちをして、混雑しているのだろう。
退職した今なら、いつでも平日に立ち寄ることが出来る。
順番待ちをする必要もない。
確かに、それはとても便利なことではあるのだが…。
 
退職し、会社の束縛から解き放たれ、自由な時間を得た。
時間の使い方は自分自身の手の中にある。
何に使おうと、誰からも何も言われない。
 
充実感という代物は得体がしれない。
つかみどころがない。
格闘するにはやっかいな対戦相手のようだ。
 
レジャー施設の静かな空間を歩きながら、退職後の生活を思い浮かべた。
 
私が社会人になったのは1975年。
ベトナム戦争が終わった年だ。
この年の2年前に第4次中東戦争が勃発し、第1次オイルショックがあった。
節電で梅田の電照看板が一斉に消され、街は薄暗かった。
戦後の高度経済成長が立ち止った頃だ。
レジャーブームの到来とともに、旅行代理店は就職先として人気があった。
私は旅行代理店や広告代理店に応募し、2社の旅行代理店に受かった。
そして、関西にある私鉄系の旅行代理店に入社した。
 
同期入社は大学卒5名、高卒が50名弱だった。
高卒の大半は女性だった。
枚方にある親会社の研修所で、1ヵ月間の新人研修が始まった。
 
研修から1週間して、当時付き合っていた女性から別れを告げられた。
女性は同じ歳で、短大を卒業して製薬会社に勤めていた。
あるサークルで知り合って、6ヵ月間付き合った。
恋愛経験の少ない私とって、女性と過ごす時間は楽しかった。
それだけに、突然の別れ話にショックは大きかった。
旅行の研修に全く力が入らなくなった。
だから、研修の最後に行われた旅行業の試験も最悪な出来だった。
その結果が影響したのかどうかは定かでないが、入社した社員の中で私ひとりだけが旅行部とは違う広告代理店部に配属された。
 
天満橋のホテルで辞令を受け、責任者らしき人に連れられて事務所に向かった。
その人は大阪営業所の所長で、頭の前面は禿げあがり、後ろ面を残った髪の毛を引っ張って禿げ頭を隠していた。
S所長は「事務所は狭いから」と言い、ホテルの1階にある喫茶店に入り、仕事内容を説明した。
説明が終わって事務所に向かったが、その喫茶店から50メートルも離れていなかった。
直接事務所に向かわず、喫茶店で説明した理由が読めた。
事務所はバス停の待合所の裏にあり、狭いところに事務机が窮屈そうに並んでいた。
打ち合わせする場所や応接室など、余分なスペースが全くなかった。
事務所の奥はデザイナー4人の仕事場で、机にはポスター、チラシや雑誌が雑然と重ねられ、まるで洞窟のようだった。
 
私は入口近くの机に座り、社会人生活が始まった。
入社する前は華やかなレジャー産業に就職して、添乗で海外を飛び回っている姿を思い描いていたのだが…。
華やかなラウンジバーに行くつもりが、場末のスナックに迷い込んでしまった感じだった。
 
広告代理店部の仕事は主に親会社である電鉄の交通媒体を取り扱っていた。
電車の車内広告、駅の看板やポスター広告が中心で、少ないが新聞広告やテレビ・ラジオなどの電波媒体も販売していた。
交通広告は利益率が高く、広告代理店部の営業成績は順調に伸びていった。
 
会社組織は旅行部の他に、駅売店の運営をする商務部と広告代理店部があり、他に定期券販売も行っていた。
会社全体の業績も順調だったようだが、それもバブル景気が終わるまでのことだ。
バブルが弾け、一気に会社は坂道を転がり落ちていった。
社員の数が一番多い旅行部門は大きな赤字を生み出し続けた。
広告代理店部の売り上げも急激に落ちて行ったが、利益率が高い商売だけに、部門の収支は黒字だったようだ。
 
やがて、会社は債務超過となり、平成11年3月、親会社から派遣された経営者が大きな決断をした。
会社を一旦解散した後、再度新しく会社を設立し、社員たちの給料を下げて再雇用した。
広告代理店部は新会社の運営子会社となって、再出発することになった。
この会社再編劇は、強引なリストラ策として、朝日、日経や夕刊紙に大きく取り上げられた。
その時の新聞記事が残っていた。
 
リストラの記事 
 

会社は旅行業と広告業に分かれ、売店を管理していた商務部は親会社に吸収された。
その後、旅行会社の業績は伸びず、最終的に大手の旅行代理店の一部になってしまった。
それを機に、私たちの会社は独立した事業会社となった。
入社してから、28年が経っていた。
その間、私は広告の営業マンとして沿線の会社をセールスしたり、グループ会社の販促活動を手伝ったり、親会社が発行していた情報誌編集の仕事をしていた。
そして、会社が事業会社になったと同時に京都営業所へ異動となった。
京都営業所で6年間過ごした後、再び大阪本社に戻り、最後は管理業務を3年間経験して、退職の日を迎えた。
40年と3ヵ月の会社生活だった。
 
6月17日の朝、いつもより早く目が覚めた。
トーストに、トマト、ベーコン、チーズを乗せ、オーブンで焼いた。
野菜ジュースを飲みながら、ピザ風のトーストを食べた。
最後となる一日の行動を思い浮かべながら、新聞の見出しに目を通した。
7時前に愚妻が起きてくる。
「ついに、最後の日になったね」と言い、「お疲れさま」と付け加えた。
 
阪急の駅からいつもの普通電車に乗り、終点の梅田に着く。
地下鉄の駅までの雑踏を早足で歩く。
満員電車の混雑も喧騒もいつもと同じなのに、いとおしく感じられた。
 
始業の30分前事務所に入り、片づいた机の前に座る。
どの引き出しも空っぽだ。
長い間積み重なっていた仕事の残骸を、すっかり捨て去っていた。
机の上には、引継の書類が残されているだけだ。
 
9時15分、応接室に入り、社長と役員から退職辞令を受け取った。
先週、この人たちから送別会として昼のステーキランチをご馳走になった。
夜の会を企画していただいたのだが、昼食での会に変更してもらった。
ガンの治療でお酒を控えている役員がいたので、私の方から酒宴を遠慮した。
 
辞令が終わると、社長がみんなに挨拶をしたらと勧める。
人前で話すのが苦手なので固辞したが、すでに全員が事務所中央に集まっていた。
その前に立って、決まり文句の挨拶をした。
「最後に、ひとつお願いしたいことがあります。
もしも、私が退職してから認知症に罹り、徘徊しながら事務所もやってきたら、やさしく声を掛けてくださいね」
最後は笑わせて終わろうと、冗談で締めた。
何人かが笑っていたので、ホッとする。
 
管理の部署で一緒に働いていた部下たちが花束と記念品をくれた。
親会社から来るはずの私の後任が遅れ、引き継ぎが曖昧になったことに不満を抱いている部下もいた。
私は1年半前に辞める意思を強く示し、再三再四後任の採用を要請していた。
だが、上司たちは積極的に動いてくれなかった。
結局、私が退社した半月先に、親会社から出向してくるようだ。
何度も慰留されたが、退職する日を伸ばす気持ちは全く無かった。
出来るだけ迷惑を掛けないようにと詳細な引き継ぎ資料を作り上司に引き継いだが、わだかまりが残った。
 
4時大阪本社を出て、京都営業所へ挨拶に向かった。
大阪本社を出る時、みんながエレベーターまで見送ってくれた。
胸が熱くなった。
泣く姿を見られるのは照れ臭いので、エレベーターの扉を慌てて締めた。
 
6年間過ごした京都営業所は懐かしかった。
初めて営業所の責任者を経験し、苦労することも多かったが、楽しいことも多かった。
赴任した1年目に、突然息子がガンに罹り、1年間の闘病の末亡くなった。
現実の厳しさを思い知らされた。
当時私を支えてくれた所員たちはほとんど大阪に異動したが、事務所の至る所に過ぎ去った時間がしみ込んでいるような気がする。
 
数人の所員に見送られて、京都営業所を後にした。
もう、二度とこの会社を訪れることはないだろう。
 
1日の最後に、私の入社より1年先輩の人と仲人をしていただいた人と、伏見桃山の居酒屋で飲んだ。
会社生活の中で、一番深く関わった人たちだ。
今までに何度も同じ想い出話をしただろう。
それでも、最後の日に語り合う想い出話は格別な味がした。
author:金ブン, category:会社の話題, 15:03
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不向きな仕事
JUGEMテーマ:ビジネス

40年間の会社生活で、すべての仕事を経験した。
それが唯一誇れることかもしれない。
 
入社して、まず、媒体係に配属になった。
媒体係は営業が取ってくる仕事を手配する仕事だ。
1年して、営業係となった。
4年間営業をして、再び、媒体係に異動した。
それから4年後、また、営業に戻る。
12年営業を務め、今度は新規事業の印刷事業課に配属となった。
親会社から来た社長が、印刷の仕事を伸ばす目的で作ったのだ。
(この社長は子会社の業務体質を勘違いしているところがあったが…)
 
印刷の実績を伸ばすことが出来なかったが、幸運にも親会社が発行する情報誌の制作を受注し、6年間編集や印刷に関わる。
そこまで旅行会社の一部門(最後は運営子会社になった)だったが、突然、独立した事業会社になった。
旅行会社は利益が上がらなかったため、大手旅行会社に吸収されたのだ。
独立したと同時に、京都営業所に異動する。
6年余り京都営業所の責任者を務めた後、大阪に転勤になり、営業の責任者になった。
それから3年後、本社の管理部に異動して3年が過ぎた。
そして、もうすぐ、退職する。
 
簡単に辿ると、私の40年はそんな流れだ。
営業していた時期が最も長かった。
振り返ると、やっぱり私は営業に向いていたように思う。
一番気軽で楽しかった。
ただし、数字に追われることが無ければだが…。
 
明日の訪問先を前日かその日の朝に考えて、決める。
営業カバンに資料を入れ、顧客を回る。
朝はまず、喫茶店で気持ちを整える。
(ただ、サボっているだけなのだが)
本を読みながら、昼ごはんをどこで食べるかを思い浮かべる。
午前中ブラブラと移動しながら、顧客を数件訪問して、昼ごはん。
午後も電車で移動しながら、顧客を数件訪問。
新規のセールスをする時は、数十件広告資料を持って店舗に飛び込む。
3時ごろにはおやつタイムを挟む。
若い頃は小腹が空き、立ち食いうどんなどを食べていた。
ゆっくりしたい時は喫茶店で、本を読んで過ごす。
夕方に帰社し、媒体への手配や企画制作への依頼など、残務処理をする。
最後、営業日報を書いて1日が終わる。
 
営業した頃はそんな生活が続いた。
自由で、気ままだった。
自分で行き先を段取りし、自分のペースで1日を動かせた。
もちろん、数字の呪縛が無ければの話だ。
それと、小難しい常連顧客を相手にしなければ、だが。
 
余り人と話をするのが好きではない性格と思っていたが、意外と楽しかった。
それに、自分が空気を読むのが得意であることを自覚した。
(単に、他人の言動や所作を必要以上に気にするだけかもしれないが…)
多くの顧客と親しくなった。
うなぎ屋の店主とは自宅に招かれて徹夜マージャンをしたし、サラ金の社長とは何度かゴルフに誘われた。
売上もそこそこ上げることが出来た。
 
ショッピングセンターの販促や親会社の仕事を担当するようになってから、のんびりした営業生活は一変した。
イベントの企画や運営管理に追われ、忙しい毎日が続いた。
それでも、現在の内勤の仕事から比べると、充実した日々を送っていたように思う。
 
会社生活に疲れを感じるようになったのは、管理する立場になった時からだ。
京都営業所に転勤となると、自ら顧客と接して仕事をすることは無くなった。
それぞれの担当者が顧客や代理店と取引するのを監督するだけだった。
担当者に付いて行っては顧客に挨拶したり、クレームには担当者とともに頭を下げに行ったりする。
自分が動いてする仕事は失敗も成功も納得出来る。
他人の仕事ぶりを管理するのは本当に疲れる。
私は上に立って、人を指導したり指示したりするタイプの人間ではない。
自分で動き回って、仕事をこなしていくほうが余っ程楽しいし、疲れない。
 
私にとって、最も疲れるのは現在担当している庶務・経理・労務の仕事だ。
最近つくづく、ストレスを感じる。

 
そもそも会社生活の最後にこの仕事を担当することになったのは、前任者が定年後の継続雇用が終了し退職となり、後釜に適任者がいなかったからだ。
元来、私は経理や労務に興味が無かった訳ではない。
簿記2級の資格は持っていたし、社会保険労務士は1度試験を受けたことがあった。
(試験に落ちて、資格取得を断念したが)
気軽な気持ちで臨んだ仕事は苦労の連続だった。
とことん誤謬を突き詰める仕事は私に不向きだった。
数字や書類を何度も確認するタイプの人間ではない。
<だいたい合うてたら、ええやんか>
気持ちのどこかで、アバウトな考えをしていた。
(このブログも余り読み返さないので、誤字脱字や間違った言い回しがあるはず)
 
先週は年度の決算処理で四苦八苦していた。
最後の決算業務になるので、間違いが無いように余計に気を使った。
その分、疲れた。
経理が不慣れな私に、ややこしい問題が舞い込んでくる。
ひとつは昨年4月からの消費税増税の処理。
(もうひとつは税効果会計の適用だったが、説明に時間が掛るので割愛するが)

 
消費税増税で生じた経理処理でこんなことがあった。
 
経理にO君とT君がいる。
O君は経理専門社員として入社し、経験も長い。
T君は媒体係から異動してきて、O君より経理の経験が浅い。
 
今回の決算で、消費税の3%増税分差額を1年分計算し、伝票を入れなければならない。
O君はすでに計算を終えて、伝票を入れる。
というのも、消費税の処理はO君が積極的に取り組んでいた。
消費税は8%に増税したが、増税以前に長期で契約した広告看板は5%で処理されているから、調整が必要になるのだ。
慣れていないと、詳細が理解しにくい。
 
T君は計算に行き詰っていた。
処理方法を数日前にO君から教えられたばかりだった。
決算を締める日の朝になっても、計上する金額を明らかに出来ないでいた。
計算が終わり伝票を入れないと、決算数字を出せない。
 
私は焦っていた。
決算が締まってから、その日にしなければならないことがたくさんあった。
「どうや、終わりそうか?」

T君の席に近づいて言った。
「もうちょっと、…」と、T君は曖昧に応える。
「昼まで待つけど、終わらなかったら、その時点の数字で締めよう」と告げる。
昼前、再度T君の席まで行き、状況を聞いた。
「まだ、少し誤差が残っているから」とT君はいう。
「誤差って、いくらあるのん?」と、私が訊く。
T君はエクセルの表を指さす。
合計数字を見て、驚いた。
<-36
「えっ、たった36円の誤差かいな。そんなん、何とかならんのか」
「O君がもっと精度を高めて、0に近づけないといけないと言っているんです」
T君は申し訳なさそうに小声で応える。
1年分を2回見直しても、誤差を0にはならないという。
1千件近い取引の売上をぴったり合わせるなんて、出来るのだろうか。
私は首を傾げた。
1回見直すのに、数時間は掛る。
誤差が0にするなんて、不可能なのではないか。
「もう、分かった。時間がない。昼からO君入れて打ち合わせをしよう」と、私は言って席に戻る。
気分が暗かった。
 
「36円の誤差で、伝票を入れたら、どんな問題が起こるの?」
会議室で、O君に言う。
それは分かりませんと応える。
経理という仕事は誤差を0に近づけていくことだと正論を振りかざす。
経理作業の経験がない私は反論する材料がない。
誤差があっても処理できる方法を知っていたら、強く指示することが出来るが、それも出来ない。
小さな誤差なんて、どうでも良いのではないか、と思える。
むやみに拘り過ぎているのではないかとも。
「出来ないことをいつまでも繰り返したって、終わらないよ。それじゃ、決算を締めることが出来ないやろ」と、私はイライラしていう。
結局、今から1時間見直してそれでも誤差が縮めることが出来ないなら、その時点で作業を終了し、伝票を入れることに決めた。
 
結果、誤差を残したまま決算を締めた。
そのために、問題が生じることはなかった。
36円程度の誤差なんて、どうでも良かったのではないか。
やきもきしたことがバカらしくなってくる。
仕事を詳しく知らないと、気苦労は絶えない。
 
管理部の仕事は1日中、伝票や書類と睨めっこして時間を過ごす。
目指すのはあくまでも正確性だ。
何度も数字や文字を確認し、間違いが無いかと見直す。
何とも、シンキクサイ仕事だ。
 
書類をめくる音とともに、パソコンのキーボードをたたく音が響く。
管理部は、机に縛られているような毎日だ。
出かけたくても、営業のように出かける用事がない。
だから、必要に迫られてもいないのに、トイレに立ったりする。
 
40年間の会社生活の中で、管理部で過ごした時間が一番苦痛だった。
私には不向きな仕事だ。
author:金ブン, category:会社の話題, 16:33
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肘かけ付きの椅子
JUGEMテーマ:日記・一般
「提案があります」
今週月曜日の朝礼で、当番のT君が言い出した。
改まって、何の提案なのかと思ったら、
「みんな、椅子の肘かけを取りましょう」と。
 
わが社では管理職になると、椅子に肘掛が付く。
平社員にはそれがない。
係長に昇格し、肘かけの付いた椅子に座ると、出世した気分になるのだが…。
なぜ、わざわざ椅子の肘かけを取ることを提案したのか?
 
椅子というのは権威の象徴みたいなところがある。
大会社の重役にもなると、ドンとした革製の椅子が用意されている。
足を組んでそこに深々と座ると、何だか偉くなったような気分になる。
わが社のような零細企業は、肘かけがあるのとないのと、2種類しかないが…。
 
親会社から子会社へ出向すると、急に地位が上がる。
係長だった人は課長や部長になり、課長だった人は部長や役員になる。 
大概の会社では、偉くなると椅子の形態や座る位置が変わる。
それを、気にする人がかなりいるようだ。
 
以前、親会社から出向してきた人で、極端に座る位置にこだわっていた人がいた。
その人は親会社では係長だったが、出向してきてわが社では次長の地位になった。
Dさんは事務所にやってきて挨拶を済ませた後、自分の座る席に案内される。
しばらくすると、席の位置にクレームを付けていた。
 
事務所では窓際に近いところに偉いさんが並んで座っていた。
その前には部門ごとに島があり、それぞれの島には管理職が正面を向いて座り、その前に担当社員たちが向かい合わせで座っている。
ちょうど、T字を描いて並んでいる。
その島の管理職にはすでにプロパーの課長が座っていて、Dさんの机はその課長の横に並べられていた。
自分は次長なのだから、課長の席より少し後ろの位置でなければならないと考えていたようだ。
 
そうしてあげれば良かったのだが、残念ながら事務所が狭かったために出来なかったのだ。
結局、課長の机より数センチだけ後ろにずらすことで納得された。
 
傍から見ていた私には、数センチの違いで満足していることがとても滑稽だった。
大会社で過ごしたDさんはヒエラルキーへのこだわりが強かったのだろう。
 
さて、朝礼の話だが、T君の趣旨は地位に関するものでは無かった。
健康に関する話だった。
肘かけがあると、立ち上がったり座ったりする時、どうしても肘かけに頼ってしまう。
足腰を鍛えるためには、肘かけに頼らないで毎日を過ごすのが良いのではないかと提案する。
朝礼に参加している社員の大半が管理職ではなく、肘かけ椅子を使っていないので、的外れな話題になった。
 
朝礼終了後も、役員や管理職から何の反応も無かったので、T君は気まずそうだった。
そこで、私はT君を呼んで言った。
「肘かけを無くしたいなら、好きにしたらええで。そこに肘かけの無い椅子があるから、それと替えたらどうや」
T君は「そうします」と言って、椅子を替えていた。
 
【余談】
以前、地下鉄で前の席に座っていたオバちゃんが席から立ち上がる時、「よっこいしょういち(横井庄一)」と、独りボケを発していた。
笑えた。
author:金ブン, category:会社の話題, 17:40
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血液型を訊く
JUGEMテーマ:ビジネス
 
時々、血液型の話題で遊んだりする。
それは雑談の時とか、呑んだ席とか…。
あくまでも、冗談の域を出ない話題だ。
 
先週、先々週と、面接が続いた。
3人次々と退職したので、その補充のため人事募集をしたからだ。
管理部の所属だが、私は直接の担当ではないので採用には関わっていない。
しかし、3人採用ともなると担当も多忙なので、私が面接の時だけお手伝いした。
主には、2次の役員面接の司会進行役だった。
 
以前、役員面接の進行役をしていた時、役員の質問が気になって仕方が無かった。
それは、応募者に対して問う「血液型は何ですか?」との質問だ。
血液型を訊ねて、どうするのだろうと疑問だった。
 
その質問をしていたのは、3人いる役員のうちY役員だけだった。
私は堪りかねて、一度意見したことがあった。
「面接で血液型を訊くのは良くないですよ」と。
すると、Yさんは「どこの会社も血液型を訊いているで」と、声を荒げていう。
「科学的な根拠の無いことを訊いても、意味が無いでしょう?」と返した。
「血液型と性格はある程度根拠はあるんやで」と執拗にいうので、
「一度、ネットで<面接 質問 血液型>と検索してみたらどうですか」と、応じた。
Y役員は納得したものと思っていたが…。
その後もYさんは面接の席で、相変わらず血液型の質問を繰り返していた。
 
A型は几帳面で奇麗好き、対照的に、B型は大ざっぱで、マイペース。
そんな分類をしているようだった。
 
今回の2次の役員面接はYさんが病気療養中で休みだったため、社長とF役員のふたりがすることになっていた。
私は司会進行役として、3日間計6人の役員面接に立ち会った。
私の役割は応募者を面接室への誘導することと、面接の進行役、そして管理部として給料や勤務時間などを説明することだ。
 
社長は親会社に在籍していた時期に人事部を経験し、何度も採用に立ち会っている。
だから、面接には慣れていた。
出来るだけ応募者に喋らせるようにしていたし、時折軽い話題も織り交ぜながら、性格や適格性などを探っていたようだ。
さすがに、上手な面接をするものだと感心していた。
 
ところが、である。
やはり、血液型を訊いたのだ。
一人目の面接が終わりかけた時だ。
訊くことが大方終わり、話すことが無くなった時、
「ところで、君の血液型は何ですか?」と。
 
「なんで…」
私は社長の顔を見てしまった。
意外だった。
そんなことを訊くのは、Yさんだけだと思っていたから。
その後、すべての応募者の血液型を訊いていた。
 
そして3日目、最後の応募者だけは血液型を訊かなかった。
忘れていたようだ。
すると、終わって退出しかけた応募者に向かって、もう一人の面接官F役員が口を開いた。
「あなた、血液型は何ですか」と。
応募者は「私、A型なんです」と明るく応える。
そして、「それがどうしましたか」という表情を見せ、こちらの言葉を待っていた。
すると、「いや、別に意図は無いんですよ…」と、Fさんは慌てて応えていた。
 
Yさんだけでは無かったのだ。
血液型を気にしていたのは。
社長もF役員も血液型を訊きたかったのだ。
 
それにしても、職を求める応募者たちはさすがに健気である。
血液型を訊かれても明るく答え、不審そうな表情さえ見せない。
「私、ばりばりのB型です」と自慢げに答える者もいた。
 
それを見ていた私は複雑な気分になった。
author:金ブン, category:会社の話題, 16:07
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転職する人々
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女子社員の退職願は自筆で、実に達筆だった。
確か、履歴書の特技に書道と書いてあった。
採用から2年と経たないので、履歴書の内容を昨日のことのように覚えている。
働いていた期間はわずか、1年と5ヵ月だった。
 
この女子社員は2年ごとに5回職を替えていた。
だから採用を躊躇したが、後任がすぐ必要というので採用となった。
なかなか聡明で機転が利き、すぐに戦力にはなったのだが…。
長く勤めるタイプではないと感じていたが、これほど早く辞めるとは。
 
後任を求人サイトで募集したが、数年前とは就職環境が変わっていた。
アベノミクスの影響か、応募者がかなり少なかった。
以前なら、募集を掛けると50近くの応募はあったのだが。
世間は売り手市場に変化している。
初任給19万円程度の求人では、求めるような人材は寄りつかない。
それでも役員が何人かの応募者を面接し、25歳の女性を採用することになった。
 
年明けに健康診断を受診させ、来週から出社の目処が立った。
ところが受診後すぐに、辞退の連絡が入る。
「婚約者が東京で就職が決まったので、私も東京で就職することに」なんて。
おいおい、ふざけてんのか。
求人費と健康診断受診費用、それに採用までの労苦はどうしてくれるのか。
現場では早く採用してと、訴えている。
再度、急いで最初からやり直し。
 
と思っていたら、続いて企画制作の社員が退職願を。
父親を介護するので、家の近くで就職するとか。
この社員も勤続3年足らず。
 
2度あることは3度ある。
さらに続いて、手配部門の社員M君が退職願い。
災難は重なって訪れるものだ。
M君は他の二人と異なり、会社に与えるインパクトが大きい。
なぜなら、会社の将来を左右する案件を任されていたからだ。
 
M君の実家は関東の千葉で、その経歴は異色だ。
私と同じ大学の理工科を卒業し、大手の銀行に就職した。
勤務地は東京だ。
銀行を1年余りで退社し、劇団四季に入る。
旅行先で観たミュージカルの世界に、魅せられたという。
しかし、劇団での裏方の仕事はキツイ。
1年足らずで退社し、当社の求人に応募し採用された。
入社して、媒体を手配する仕事に就いた。
はた目から見れば、その仕事は適していたように感じた。
理工科卒で数字に強く、パソコンにも詳しい。
先輩や上司たちにも重宝がられていたようだ。
 
社長や役員に重要なプロジェクトを託され、的確に業務を進めていた。
それだけに、急な退職は経営者や関係者を混乱させているようだ。
獅子文六ではないが、てんやわんやの様子。
M君の勤続期間は5年余りだった。
 
今回退社の(女性は今週退社した)3人の共通点は独身であること。
それと、何度も職場を変えていることだ。
上昇志向なのか、自由気ままなのか。
経済的に扶養しなければならない人がいるわけではないし…。
そう考えると、このような事態は十分に想定できた。
 
バブル崩壊後、外資系の会社が増え、終身雇用の制度そのものが見直される傾向にある。
欧米では学校を卒業後就職して定年まで一つ会社で勤め上げるのは珍しいようだ。
日本ではまだ終身雇用が根強いものの、ネットでの就職活動が一般化し、転職する環境は良くなっている。
 
私は、今の会社で40年間過ごした。
他の会社を知らない。
さすがに40年ともなると、これで良かったのだろうかと何度も自問した。
もっと、違った世界(会社)を体験してみたかったとも思う。
 
所帯を持ち家族が増えると、なかなか転職は勇気がいる。
経済的に家庭を支えなければならない責任を感じるから。
どの世界でも通用するようなスキルがあるなら、転職も容易なのだろうが…。
何の特技もない人間には転職は相当の覚悟がいる。
 
退職する3人にどんな未来が待っているのか。
今までに退職した人のその後を、風の便りで聞くことがある。
成功して明るい未来を描いた人、失敗して生活環境が悪化した人。
人生、いろいろだ。
でも、みんな良くなると信じて、その時は決断するのだ。
その決断を否定する権限など、誰にもない。

 
5ヶ月後に会社を去る私はもうそんな決断をすることはないが、可能なら他の会社を経験したい気持ちはある。
62歳での転職は簡単ではないのだろうが…。
author:金ブン, category:会社の話題, 12:23
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忘年会というイベント
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「あんな忘年会はやらないほうがマシ!」
月曜日の朝、社長が私の席までやってきて、強い調子で言う。
 
先週の金曜日はわが社の忘年会だった。
もともと参加者の申し込みが少なかった。
社員50人に、半分の25人程度しか参加申し込みが無かった。
年末が忙しいのもあるが、会社の忘年会が嫌な人もいるのだろう。
それが当日になると、さらに仕事や所用で2,3人減った。
私も下血のため、欠席した。
 
場所はいつも宇治にある親会社の保養所。
料理はすき焼きなのだが、とにかく安い。
肉も案外良い肉を使っている。
飲み食いして、ひとり2000円程度でいける。
街中にある飲食店の半分以下だ。
もちろん会費は会社負担だ。
もう10年以上、この場所で続けている。
 
私が入社した頃、社員から会費を集めていた。
その会費を安くするため、取引業者から寄付を募っていた。
しかし、時代の流れとともに、この寄付に頼ることが出来なくなった。
取引しているという圧力で、金をむしり取るのは良くないということだ。
そうなると、個人の負担が増える。
会社の成績もあまり良くなかったので、給料は増えない。
(当時の親会社は旅行会社で、今は消滅してしまった)

そんな時代には安価な保養所での忘年会はぴったりだった。
だから、参加者も多かった。
 
忘年会は20畳程度の座敷で行われた。
円形の座卓にすき焼き鍋を置き、6人程度が鍋を囲む。
社長の挨拶で始まり、乾杯の音頭で宴会となる。
歓談の内に座がほぐれ、熱気に包まれる。
昔ながらの宴会風景だ。
世間ではこれにカラオケやビンゴゲームが加わり、場を盛り上げたりするのだろうが、当社の忘年会はそんな趣向は無い。
ただ酒とビールを呑み、すき焼きを食べるだけ。
 
呑んで食べるだけではつまらないと、今の社長は感じていた。
社長の発案で、ここ2,3年は幹事に指名された人が簡単なゲームを企画することになっていた。
幹事に指名されるのは入社1,2年の新人だ。
 
昨年は入社したばかりの女性4人が幹事になった。
いろいろと趣向を凝らしたゲームを企画していた。
場が盛り上がり、社長は満足そうだった。
 
幹事たちも楽しんでいたと思っていたのだが、そうでもなかったようだ。
女性たちは幹事に指名されたことが不満だったという。
忙しい年末に、誰がすき好んで幹事なんかするか。
気を使って疲れるだけで、面倒以外の何物でもない。
後で労務担当から聞いた話によると、「これは業務ですか」「残業は付くのでしょうか」と訊いてきたという。
昨今、権利主張の風潮は仕方が無いことなのだろうが…。
 
そんなこともあって、今年の忘年会は幹事を指名することもしなかったし、特別な企画も用意していなかった。
社員の1年間の慰労に感謝して催す会なのに、実施する前から全く盛り上がらなかった。
当日、宴会が始まる午後7時にはたったの5人しか会場に集まらなかったという。
その後、続々と社員たちは遅れてやってきて、最後には20人程度にはなったようだが。
これまでで最低の参加者だった。
 
「来年の忘年会はもっと違うことを考えないと、する意味がない」と、社長が声を荒げるのも無理はないのだが…。
 
この現象は、社員たちの会社への帰属意識が投影されているとも感じる。
「1年に一度の会社の行事だ。みんなで盛り上がろうぜ」という雰囲気は全く見当たらない。
「こんな仕事が忙しい年末に」という声がどこからか聞こえてくる。
これもわが社に限ったことではないのだろう。
 
かくゆう私も、会社の忘年会は参加しない時期があった。
編集の仕事でそれどころではなかったこともあるが、会社への帰属意識が薄れていた時期でもあった。
 
若者たちが進んで参加し楽しめる忘年会とはどんなものなのだろう。
保養所なんかではなく、ターミナル駅近くの洒落たカフェバーでするのも良いだろう。
USJに集まって盛り上がるのも良いかも。
ラウンド1で、ボウリングやダーツを楽しむのもありかも。
(費用はかなり高くなるが)
 
来年の忘年会が楽しみだ。
うん?
来年定年退職する私にはもう関係ないことだが…。
(無責任な嫌な奴です)
 
気心の知れたものと一献傾ける忘年会。
やっぱり、これが一番楽しい。
author:金ブン, category:会社の話題, 11:56
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便利になった事務所
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入社した時、配属された広告代理店部は天満橋のバス待合所の裏にあった。
休憩所程度の広さだった。
そこに15人程の社員が肩を寄せ合いながら、勤務していた。
アブラムシとダニが出没する、今では考えられないほど劣悪な環境だった。
トイレは松坂屋の駐車場にある共同トイレを使い、昼食時には先輩社員たちが松坂屋の社員食堂に連れて行ってくれた。
 
コピー機なんてなかった。
青焼き機と呼ばれたジアゾ式複写機があり、感光紙で書いた紙をコピー複写していた。
入社したての頃、私はこのコピー複写ばかりしていた。
 
1年後、事務所が淀屋橋の雑居ビルに移り、コピー機が入った。
最初の頃は頻繁に紙詰まりしていたし、故障も多かったが…。
 
そんなアナログの時代に、私は自分の横着な行為から大変なミスをしたことがあった。
営業になって2,3年した時、四天王寺にある太平寺というお寺から新聞広告を頂いていた。
太平寺では毎年3月と4月の時期、13歳になる子供を対象に仏様のご加護を祈る<十三まいり>という行事をしていた。
朝日と毎日の全1段の記事下広告を受注していた。
 
打ち合わせに行くと、いつも住職と奥さんが応対してくれる。
住職は温厚でどっしりと構えた方で、どちらかと言えば奥さんの方がしっかり者で細かい性格だった。
新聞広告の最終校正を終えて事務所に戻ると、住職から電話がかかってきた。
「行事の当日、境内で野点をすることになったから、時間を入れてほしい」と、原稿の空きスペースに、場所と時間の文字を入れることを依頼してきた。
「今日入稿しないといけないので、責了(責任校正を了解してもらう)で良いでしょうか?」というと、「いいからいいから、もう任せとくさかい」と応じてくれた。
この時期、私は税務署の確定申告の仕事(路上に布張りの立て看板を取り付けていく)をしていたので、かなり忙しかった。
時間があればもう一度直した箇所を確認してもらってから入稿するところだったが、そんな時間の余裕が無かった。
デザイナーに版下の訂正を指示して、出来上がった版下を確認し、凸版の制作に回した。
(今では原稿データで送るだけだが、その頃はまだ硬い凸版を新聞社へ届けていた)
そして、新聞社へ入稿し、数日後社会面の記事下に掲載された。
「野点って、何か解ってはったんか」
すぐに太平寺から電話が掛ってくる。
もちろん、野点が野外でお茶や抹茶を楽しむ茶会のことだと知っていた。
「野点の字が間違ってる」と、住職が強い調子で言う。
版下原稿を確認すると、「野点」が「野立」になっていた。
 
デザイナーに渡す訂正原稿に、私は「野立」と書いていた。
屋外に立つ広告看板のことを「野立て看板」という。
それが頭にあったのだろう。
すぐに、上司を連れて、謝りに向かった。
 
いつも温厚な住職さんは豹変していた。
余りにも恥ずかしい間違いに、怒り心頭だった。
そして、再度の掲載を要求された。
そんなことになると、会社は大赤字になる。
何度か交渉し、最終的に値引きすることで落ち着いた。
それでも、売上は仕入れ値よりかなり下がった。
後ろから奥さんが糸を引き、住職さんを操っていたようだった。
私は最初の始末書を書いた。

 
現在のようにメールやファックスがあれば、こんなことは起こらないだろう。
すぐに原稿を送り、確認してもらうことが出来たはず。
 
会社にファックスが入るのはそれから数年が経った後のことだ。
初めて原稿用紙がファックスの機械に吸い込まれていくのを見た時、どうしてこんなことが出来るのだろうと不思議でならなかった。
ファックスを見ると、この太平寺で体験した事件を思い出す。
 
今、事務所の中を見渡してみる。
カラープリンターが2台あり、ファックスが1台、それにすべての机にパソコンが置かれている。
昔は営業担当が紙で売上の報告書を書いて、仕入れ担当や経理担当、上司に回していた書類が、パソコンに入力するだけでそれぞれが確認できるようになっている。
 
営業の行動表は壁に掛っている黒板なんかではない。
パソコンの中に入れば、みんなの行動が確認できるようになっている。
それに、一番便利なのはやはりメールだろう。
社内での連絡、社外とのやり取りもこのメールが力を発揮する。
印刷会社へのデザイン原稿だって、データで送れば事足りる。
 
社員がパソコン内で共有することが出来るのをグループウェアという。
8年前から、サイボウズというグループウェアのシステムを使っている。
今まではこのシステムを社内でしか使えなかった。
社内にサーバーを置いて運営していたからだ。
それが、今月から社内以外の場所でも使えるになった。
インターネット上にあるサーバーを使うようになったからだ。
クラウド化というらしい。
営業を中心に社員たちから強い要望が出ていたので、導入することになった。
何でも、メールやスケジュールが出先から確認できるので、仕事が効率的に進むのだという。
一々帰社しなくても仕事の処理が出来るらしい。
営業マンは足で稼ぐと教えられた人間にとって、ほんまに役立つのかとつぶやきたくなる。
そんなことを言っていると、ジジイがほざいていると言われかねない。
人と人とが接する機会はやはり確実に減っていくような気がする。
そんなことを言っていると、また、若者から接する機会が少ないから良いんですと、返されるかもしれない。
 
太平寺の失敗から40年近く経って、事務所内には便利な機器が揃っている。
仕事はスピーディに処理され、時間がすばやく過ぎていく。
のどかで、そしてどこかのんびりとした昭和な昔を懐かしんでいると、取り残されてしまいそうだ。
author:金ブン, category:会社の話題, 12:25
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監査

先週から今週にかけて、親会社の監査があった。

監査というのは、変なことをしていないか調べることだ。

変なことというのは、法律の違反、会社で決めている約束事を実行していないことをいう。

 

調べるのは業務の内容と会計の内容がある。

業務監査は職務を行う行動で、法令や規程に違反していないかを確かめる。

家庭でいえば、燃えるゴミと燃えないゴミの選別をしているかとか、印鑑を悪いことに使っていないかとか、ちゃんと歯を磨いている(?)とか…。

会計監査とは、会社の財務状態を記載する計算書類の内容が適正に表示されているかを確かめる。

家庭でいえば、お母さんの家計簿は間違っていないかとか、お父さんはお付き合いといって小遣いをごまかしてないかとか、変な女の人にお金を貢いでいないとか…。

 

今回は3か月に1回する監査と、3年ごとの監査とが重なって、3日間調べられた。

同じ書類をひっくり返しては、重箱の隅をほじくるようにして粗探しをしていた。

もちろん、調べられる立場は弱い。

叩けば、必ずほこりは出てくるものだ。

そこで、調べられる側はほこりを出来るだけ目立たないように隠そうとする。

すると、監査役たちは♪ありのままの姿を見せるのよ♪と言って、計算書類、稟議書、通帳、賃金台帳などを机にひっくり返して、事細かく追及する。

 

最近、口を開けば、コンプライアンスだ。

法律を守るのは当然だとは思うが、なかなか完璧にはいかない。

 

たとえば、時間外労働(残業)。

労働者が時間外で働かすのには、労働組合と協定を結ばないといけない。

それに、協定を結んでも、年間360時間を超えてはならない。

もちろん、残業には手当が付く。

会社側は、従業員に残業なんてしてほしくない。

ちゃんと、時間内に仕事を終わらせてくれればいいのだ。

18時までが就業時間であれば、18時に帰ってくれればいい。

現実はそうはいかない。

「仕事があるから」と言われると、「明日の勤務時間内でしなさい」と返すことが出来ない。

いつも、「今日しなければ間に合わない」、「お客様との打ち合わせがある」とか弁解をするだろう。

 

当社には企画制作部門がある。

主に、営業が受注した仕事の企画や運営、デザインなどを担当する部署だ。

ほとんど毎日、残業している。

それも、毎日確実に21時を過ぎている。

正直、早く切り上げようと思えば、出来るんじゃないか、と思ってしまう。

 

以前、京都営業所の責任者をしていた時、営業所に企画の担当がひとりだけいた。

毎日のように、22時過ぎて残業をしていた。

早く帰る様にと指示しても、「仕事があるので、仕方が無いのです」と言って、残業時間は一向に減らなかった。

放っておかれないので、本社に頼んで、アルバイトを1名採用してもらった。

果たして、残業は減っただろうか?

全く、変わらなかった。

結果、アルバイトの残業が同様に増えただけだった。

 

一度残業代を継続的に手にすると、それが固定給の一部になってしまうのだろう。

残業の多さは毎回、監査から指摘されているが、解決策は見いだせないでいる。

 

社内規程・規則・企業倫理なども、書面どおりに実行するには微妙なものもある。

営業会社というのは、儲けを絞り出すために、犠牲にするものがある。

いつも、「世の中はそんな杓子定規にいかないんだ」という言葉を飲み込むのだ。

 

言い訳をしても、監査役が納得する訳がない。

 

Mさんは当社の準常勤監査役だ。

週に1回、当社にやってきて稟議書や契約書などを事細かに調べる。

注意点があると、無表情で指摘する。

悪い人ではないのだが、とにかく堅物で融通が利かない。

 

今回くだらないと思うことで、こんな追及を受けた。

 

京都営業所に使っていない営業所印があった。

不正防止のためにも早急に処分するよう、5月の監査でMさんから指摘されていた。

早速その印鑑を大阪本社まで送ってもらい、処分しようとしていた。

しかし、このままゴミ箱に捨てるわけにもいかず、使われないように潰してから捨てようと、とりあえず金庫の奥に入れていた。

いつでも処分できると思っていて、失念していた。

金庫の奥にあるのだから、不正使用されることはない。

大した問題ではないと、軽く思っていたのだが…。

3か月経った今回の監査で、Mさんは追求の手を緩めなかった。

 

監査項目に、京都営業所の印鑑処分とそれを証する書類という項目がきっちりと書いてあった。

前回、私は処分しますと文書で返答していた。

嘘も方便で、処分しましたと言えば良かったのだが、処分したことを証する書類とはなんやろうと考えていると、嘘で取り繕うことが出来なかった。

「処分しましたか」と問われ、「すみません。まだ、金庫に置いていますので、すぐに処分します」と応える。

「前回、処分しますと書いていますけど、どうして処分しなかったのですか?」と問う。

答えられずに沈黙すると、「なんで処分しなかったのですか?」と、私の顔を凝視して再び繰り返す。

まるで、刑事の取り調べのようになった。

<ちゃんと保管していたのだから、処分しようがしまいがええやないか>と、腹の中で思っていたが、アホらしくて反発する気力もなく、「私の怠慢でした」と応えるしかなかった。

 

監査になると、いつもこういう状況が繰り返される。

そして、いつもしどろもどろの返答に終始する。

 

長く営業をしていたため、私には管理担当に必要な厳格さが欠落しているようだ。

営業は儲けることが第一の使命だから、利益を上げることの妨げになることは避ける傾向にある。

 

稟議書がちょっと遅れたからといって、なんの影響があるのだろう。

契約書が一文字や二文字間違っていても、大筋で理解出来るのであれば良いではないか。

 

そんなことを思っている私は、きっと管理担当に向いていないのだろう。

 

先週、金庫から京都営業所の印鑑を取り出し、表面をズタズタにナイフで切り裂き、ゴミ箱に捨てた。

その際、デジカメでその様子を写して、記録しておいた。

 

それを見た社員が、「何してはりまんのん?」という。

「コンプライアンスや」と応えた。 

author:金ブン, category:会社の話題, 12:29
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原告として

世の中は善人より悪人のほうが多いのではないか。

裁判所に行くと、いつもそう思う。

 

先日、初めて原告として裁判所へ出かけた。

民事の裁判だ。

 

親会社は公益法人や協会に出資している。

そして、社員を出向させている。

そのひとつの協会から仕事の依頼があった。

 

協会主催のイベントをするので、その告知を電車の広告に掲載してほしいというものだった。

掲載が終わって教会へ広告料を請求しようとすると、出向している社員の人から「B社へ請求してほしい」と告げられる。

B社というのはイベントの総合プロデュースをした会社だ。

 

当社の担当営業マンは紹介されたB社へ請求を出した。

請求額は21万円だ。

しかし、支払月になっても、広告料は振り込まれてこなかった。

東京にあるB社の事務所へ電話すると、社長が支払うので再度請求書を出してほしいという。

再び請求書を出したが、振り込まれてくることはなかった。

担当者は何度も電話したが、社長は再び電話に出ることが無かった。

1年以上が経過し、未収金だけが残った。

 

これは当初B社と取引をしたわけではない。

親会社が関連している協会と取引したのだ。

それなのに、請求先をB社へ移され、最終的に回収できなかった。

 

今回のイベントでは、B社は当社以外に、音響や演出の会社等3社にも取引をしていた。

いずれも協会を通じて仕事をしたものだ。

それらの会社はもっと多額の取引(100万円以上)をしていた。

 

そこで、協会から顧問弁護士Wさんを紹介される。

協会も責任を感じたのだろう。

W弁護士は3社の債権をB社に請求する代理人になってくれる。

W弁護士はB社の社長に何度も連絡をした。

初めての内は「支払いので、待ってほしい」と返事だったが、最後は電話にも出なくなったという。

自分の債務に全く誠意がない。

 

そして、W弁護士は債権者3社を集めて、今後の対応をどうするか打ち合わせをすることになった。

 

弁護士事務所は梅田の高層ビルにある。

インテリジェンスビルだ。

1階の受付で、入館のバッチを受け取らないと入れない。

W弁護士は多くの会社の顧問弁護士をしているのだろう。

顧問料で稼がないと、こんなビルで事務所を持てないはず。

 

W弁護士は私と同年代のようだ。

厳格な先生というイメージではなく、気さくな感じを与える。

だが、話していると、時折鋭い目つきを見せる。

 

弁護士の机の前にあるソファに座り、打ち合わせをする。

個人でイベントの演出している人と、音響の会社を経営している社長と、そして私が弁護士を囲む。

債権額は、音響の会社が30万程度で、演出家が一番多く100万円以上あるらしい。

 

打ち合わせの結果、3社で訴訟することになった。

(後で、音響の会社が辞退し、結局2社での訴訟となった)

弁護料は10万円。(他、事務費が実費で掛る)

これを債権額で按分することになり、わが社の負担は1万円だった。

少ない負担だ。

ただ、裁判するからといって、確実にお金が全額戻ってくる訳ではない。

でも、負担が1万円で済むなら、やってみる価値がある。
原告として訴訟に参加することにした。

(多分に私の好奇心が作用しているのだが…)

 

裁判の日、W弁護士と大阪地方裁判所で待ち合わせた。

傍聴で見なれた場所だ。

いつもは傍聴マニアとして来ているが、この日はりっぱな原告だ。

 

事前のW弁護士の説明によると、B社の社長は裁判所には出頭しないので、書類だけを裁判長に渡すことになるということだった。

10分程度で終わりますから、原告が裁判所に行く必要はありませんよ」と言われたが、「参加させてください」と返事していた。

辛酸なめ子のノリだ。

W弁護士は「一般の人が裁判所へ行く経験はめったにありませんから、是非来てください。案内しますよ」と言ってくれた。

 

その頃、私はW弁護士とかなり親しくなっていた。

 

W弁護士は文章を書くのが好きで、冊子に投稿されたりしているのだ。

歴史に造詣が深く、関西の名所旧跡を訪れる紀行文を書かれていた。

読書家でもあった。(著名な作家の顧問弁護士もされている)

私も情報誌の編集に参加していた経験があり、大阪や京都の名所の知識なら少しは得ていた。

訴訟の打ち合わせの後で喫茶店に誘っていただき、話す機会があった。

その時も、W弁護士が訪れた名所旧跡の話題で盛り上がった。

 

その後、もうひとつ未収金の案件をお願いした。

社員が顧客からの集金を横領した事案で、公正証書を取り母親が連帯保証人になっている。

もう、10年以上経過しているものだ。

初めは毎月一定額を入金していたが、段々と途切れがちになり、ここ1年間は全く入金されていなかった。

 

8階の法廷前に、W弁護士が現れた。

私は刑事事件の傍聴経験は多いが、民事裁判はほとんどない。

刑事事件は1事案に付きひとつの法廷で裁判を行うのだが、民事裁判は複数の案件を同時に裁判することがある。

その時も3件同時に行われた。

法廷前には関係者が集まっていた。

今回の案件で参加しているのはもちろん私だけ。

共同で訴訟している演出家は参加していない。

 

法廷前で待っていると、開廷時間にW弁護士が現れた。

「昨夜B社の社長から電話があって、100万円だけ支払うからと言ってきましたよ」

開口一番、W弁護士が言う。

「おそらく、裁判に訴えられたことで、ビビッたのでしょうね」

 

裁判長が15分遅れて法廷に現れた。

私とW弁護士は並んで、傍聴席に着く。

1番目の裁判は耐震不足のビルを建てた建設会社とビル所有者との裁判だった。

建て直し費用を巡って、係争しているようだった。

 

2番目にW弁護士が呼ばれて、法廷に立つ。

もちろん、被告席には誰もいない。

「被告から昨夜連絡があり、支払うと言ってきましたので、その動向を見守りたい」と告げ、裁判長に訴状を手渡した。

「引き続いて交渉をするということで、次回に再度伺いましょう」と裁判長が告げ、次回の裁判日時を決めた。

たった3分程度の裁判だった。

 

裁判所を出ると、近くの喫茶店に入った。

「たぶん、支払ってくると思いますよ」と自信ありげに、W弁護士は言った。

私はそんな簡単に支払う訳ないだろうと思っていた。

 

裁判から1ヵ月経った。

突然、W弁護士から21万円、未収債権全額が振り込まれてきた。

お礼の電話を入れると、「B社から100万円振り込まれてきたので、そちらの債権を優先して支払いました」という。

 

巧くいったケースだと思うが、裁判の圧力とはスゴイものだと感じた。

 

現在、W弁護士はわが社の顧問弁護士になってもらっている。

顧問料はたった年間3万円だ。
author:金ブン, category:会社の話題, 11:33
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