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うつ病九段

JUGEMテーマ:読書

 

木の実ナナ、武田鉄矢、岡村隆史、ユースケ・サンタマリア、高島忠雄、丸岡いずみ…。

これらの芸能人は「うつ病」に罹患したことを公表している。

人気商売の有名人であるが故に、多くのストレスを抱えているようだ。

 

プロ棋士の先崎学は昨年の9月から今年の4月から将棋のトーナメントから休場していた。

休場当時「一身上の都合」ということだった。

好きなトッププロのひとりだったので、突然の休場が気になっていた。

 

NHK将棋トーナメントでの先崎棋士の解説は分かりやすく、面白かった。

特に5年前のトーナメントでの、準決勝羽生・郷田戦の解説は印象に残っている。

羽生棋士が見事な詰み筋を見つけた時、「やっぱり、羽生さんは天才ですね」と何度も感心していた。

自分もトッププロなのに、同年輩の棋士を褒め上げる姿は微笑ましくもあった。

その性格が素直で大らかなのだろうと感じたものだ。

文章も上手く、将棋関係以外でもたくさんの本を出版している。

マンガで大ヒットし映画化された「3月のライオン」は先崎が監修している。

 

休場してしばらくしてから、ネット上では休場の原因が精神的な病気だと書かれていた。

 

トップ棋士の休場といえば、4年前女流棋士の里見香奈が話題になっていた。

女流タイトルを独占していた棋士の突然の休場だったので、ストレスによるうつ病ではないかと囁かれていた。

(里見香奈棋士は8ヶ月後に復帰して、次々にタイトルを取り返して復活している)

 

陽気で明るい性格に感じられた先崎棋士が精神的な病気に罹ったというのは意外に思えた。

その先崎棋士が今年の7月出版した本が話題になった。

本の題名は「うつ病九段」で、副題に(プロ棋士が将棋を失くした1年間)とあった。

突然うつ病に罹った将棋のトップ棋士が体験した日々の出来事を克明に記している。

 

幼い頃から将棋を初め、天才と言われながら将棋界の頂点を目指して、駆け登っていった。

ずば抜けた成績を残しながら常に注目を浴び、先崎棋士は人々から賞賛される。

出版した本も売れ、話題映画の監修もする。

 

それが、6月23日のことだ。

朝食後突然、頭が重くなるのを感じる。

すぐに治ると思っていたが、それ以後1週間、頭はどんどん重くなるばかりだ。

「これはおかしい」と自覚するようになる。

だんだんと寝付きが悪くなり、眠れなくなっていく。

 

予兆はあったという。

その頃、将棋界は「不正ソフト使用疑惑事件」で揺れていた。

将棋連盟の会長が同年代の佐藤棋士であったので、様々な相談に乗っていた。

また、映画の監修や執筆活動などで、多忙を極めていた。

 

<胸が苦しくなる症状が出るようになり、横になっていると、無性に胸がせりあげてくるような感覚が襲ってくる。>

<胸が苦しくなるとともに、頭が重くなる。常に頭の上に1キロくらいの重しが乗っているような感じで、この重しは横になっても取れない。>

<ひたすら深呼吸をする。ゆっくり吐いて、ゆっくり吸って。しかし、どんなに深呼吸しても、頭の重さと胸の苦しさは減ることが無かった。>

 

やがて、死のイメージに取り憑かれるようになる。

 

<頭の中には、人間が考える最も暗いこと、死のイメージが駆け巡る。高い所から飛び降りるとか、電車に飛び込むなどのイメージがよく浮かんだ。>

 

<電車に乗るのが怖いのではなく、ホームに立つことが怖かった。毎日何十回も電車に飛び込むイメージが頭の中を駆け巡った。>

飛び込むというよりも、吸い込まれるというイメージなのだそうだ。

<健康な人間は生きるために最善を選ぶが、うつ病の人間は時として、死ぬために瞬間的に最善を選ぶ。脳からの信号のようなもので発作的に実行に移すのでないだろうか。>

 

棋士は頭脳を使う仕事だ。

うつ病が進行すると、全く頭が働かなくなる。

論理的な能力が衰え、判断力が低下する。

プロ棋士は棋力を養うために、詰将棋をする。

プロ棋士になると、十数手詰程度なら容易に解いてしまう。
先崎棋士の場合、アマチュアでも解けるような7手詰が全く解けなくなってしまったという。

<うつ病は心の病気ではなく、脳の病気なのだ。>

 

幸運と言うのは変なのだが、先崎棋士にとって、実兄が精神科医だったことが良かった。

兄の助言で、うつ病を克服する時間が早まったと云えるだろう。

今年の4月からプロ棋士として復帰し、順位戦トーナメントで将棋を指せるまでに復活している。

 

現在、日本では15人にひとりがうつ病に罹って、世界中では3.2億人がうつ病を発症し、年間80万人が自殺しているという。

<オトナの雑学>に書いてあったが、今健康増進効果があると注目されているブロッコリーはうつ病にも効果があるらしい。

ブロッコリーの栄養素である<スルフォラファン>という成分は精神面にも効果を発揮することがアメリカの研究で報告されているという。

 

私は精神面で弱いところがあると自覚している。

すぐにくよくよと考え込むし、瑣末な出来事を気にして睡眠が浅くなる。

 

玉ねぎは嫌いだが、ブロッコリーは野菜の中で一番好きだ。

最近、ブロッコリーを良く食べている。

author:金ブン, category:読書, 09:50
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小説「パンジー」後編

JUGEMテーマ:読書

 

先週の続きで、小説「パンジー」後編です。

 

主人公の滝本良平は忘年会の夜、突然いつもの日常と違った世界に入りこんでしまった。

戸惑っている良平は今まで面識がない上司の田賀に相談する。

田賀は自らの経験を話し始める。

そして、自分に起こっていることが明らかになる。

その結末は。

 

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小説「パンジー」後編

 

「実は、僕も経験があるんだ。突然、世界が変わってしまったことが。それは僕が小学生の時のことだ」と、係長は語り始めた。

 

小学生低学年の時、学校帰りの公園で雲梯(うんてい)にぶら下がって遊んでいた。

身体の反動を使いながら、右手と左手を交互に前へ進めた。

いつもの慣れた運動だったが、突然、左手が鉄棒をつかみ損ねた。

右手が身体を支えきれず、地面へ落下した。

着地しようとしたが、足が地面に着かず、すっと奈落に吸い込まれるような感覚に襲われた。

すっと血の気が引いて、目の前が真っ暗になった。

気が付いた時、雲梯の下で倒れていた。

「大丈夫?」と、数人の子供たちが心配そうな顔で見下ろしている。

身体のどこにもケガは無かった。

だがその時を境に、身の周りに変化が起こっていた。

 

田賀係長はそこまで話すと、ウェイトレスにグラスを高くかざして水割りを注文した。

「僕には2歳下の妹がいたんだ。公園から家に帰ると、妹が4歳下の弟に代わっていたんだよ。僕は家を間違えたかと思ったが、確かにそこは自分の家だったし、両親も間違いなく自分の父と母なんだよ。しかしだね、目の前の現実は僕の記憶と少しずつ違っていた。当然、弟なんて知らないのだから、この子は誰って、両親に訊くし、妹はどこへ行ったのって尋ねるし…。父も母も、頭がおかしくなってしまったじゃないかと心配して、かなり慌てていた。学校も変化していた。あったはずに物がなくなっていたり、無かったものが当たり前のように存在している。何人かの友達は全く知らない子だったり、知らない先生が数人いた。学校でも話題になり、病院へ行くように勧められたりした。病院では、記憶にくい違いはあるものの脳には異常がないとの診断だった。僕はその変化が不思議で仕方が無かった。戸惑いながらも、順応していくしかなかったんだ」

係長は深呼吸をしてから、運ばれてきた水割りのグラスに口を付けた。

「どうだ、滝本君。これは僕が35年前に体験したことなんだ。実際に経験した本当の話だよ。君の体験と似ているだろう」

僕の目を真っ直ぐに見て、係長が言う。

「そうだったんですか」と、僕は大きく頷き、「これって、一体どういうことなんでしょうか?何が起こったんでしょう?」と

すると、「パラレル・ワールドだよ」と、係長が言う。

「大人になってから、僕はこの体験についていろいろと調べてみたんだ。すると、ある文献から<パラレル・ワールド>という現象を知ったんだ」

田賀係長はパラレル・ワールドを説明する。

人生はひとつではなくて、数限りなく枝分かれしているという。

例えば、ある人が志望の大学に受験して合格する。

その人が大学に進み社会人になり、一生懸命働いて、やがて管理職になり重役になったとする。

そういう順風満帆な人生であれば良いのだが、もし他に違った人生が同時に存在しているとすると、どうだろう。

志望校の大学受験に失敗してしまって進学を諦めた人生、大学に進んだが大病を患って長い闘病生活を強いられた人生、一流の会社に就職したものの会社が倒産してその後再就職に苦労した人生、

社会人になって家庭を築いたが妻と性格が合わず離婚することになった人生などなど。

それぞれの人生が平行して存在している。

それが<パラレル・ワールド>の考えだという。

そして、それらの人生はけっして交わることがない。

だが、田賀係長や僕のケースは何かの拍子に別の人生の自分と入れ替わってしまった。

 

店内の入口近くに掛かっていた時計は11時30分を回っていた。

薄暗い店内には客がまばらになっている。

「なんか、信じられないですね、そんなことが現実に起こるなんて」と言って、僕は小皿のナッツを摘まんで口に入れた。

「信じられないだろうね。僕も信じられない。でも、それしか、この現象を説明できないんだよ」

田賀係長はそういって、腕を組んで目を閉じた。

しばらく、沈黙が流れた。

 

「滝本君、以前の世界で君が結婚した相手は何という名前だった?」

ゆっくりと目を開け、田賀係長は僕に訊く。

「直美です。旧姓は小坂、小坂直美です」

「そうか、小坂さんなのか。なるほど、そうか」と、田賀係長がうなずく。

「どうしたんですか。直美がどうしたんですか。直美を知っているのですか」

僕が尋ねると、田賀係長は10年前に小坂直美が会社で働いていて、入社して3年後に退職したことを告げた。

直美は前の世界と同様、僕の会社で働いていたのだ。

僕はすでに阿村浪江と結婚していたので、直美と結びつくことがなかった。

「そうだったんですか。それで、小坂直美は今どうしているか、係長はご存知なのですか?」

田賀係長は首を振って、「詳しくは知らない。退職後、結婚したというのを聞いたが…」

僕と結婚して家庭を築き、二人の子供を育てていた直美が、この世界では他の男性と結婚している。

胸の奥が熱くなるのを感じた。

僕はそれを払いのけるように大きく咳払いをした。

 

日が変わる前、僕たちは店を出て、駅に向かって歩いた。

クリスマスのイルミネーションが街のいたるところで飾られ、駅前は師走の喧騒が続いていた。

別れる時、田賀係長はぽつりと言った。

「滝本君、もうこの世界に来てしまったんだから、この現実の中で生きていかないと仕方が無いんだよ。前の世界でのことは忘れるしかないよ」

僕はその言葉にゆっくりと頷いた。

納得できた訳でもなく、僕の心は鉛を飲み込んだかのように重苦しかった。

田賀係長は「じゃ」と右手を挙げ、JRの方向へ向かって足早に去って行った。

 

慌ただしさの中で、年が明けた。

新しい家族と過ごす年末年始の生活に戸惑いながらも、僕は何とかこの世界に慣れようと努めた。

例えば、正月のお雑煮にしても、直美はお吸い物だったが、徳島出身の浪江は白みそ仕立ての雑煮を作った。

浪江や子供たちも僕の変化に違和感を覚えながらも、一時的なこととして納得しているようだった。

そして、時間が経つほどに違和感はゆっくりと解消されていく。

会社生活でも同様に、僕はこの世界で生きる労働者として、日々の仕事に埋没していった。

上司や同僚たちも、僕の変化を一時的なものとして理解してくれた。

 

こうして世界が変化したことを受けとめたとしても、僕にはどうしても気になることがあった。

それは直美が以前この会社に在職したことだった。

直美が入社した時、僕はすでに浪江と結婚している。

前の世界では浪江と結ばれていないため、入社してきた直美と親しくなり結婚する結果になった。

だが、この世界では直美と同じ会社に勤めていたが、違う人生を歩むことになったのだ。

 

直美に会いたい。

僕の心の中に、抑えきれない感情が湧き上がってくる。

今どこで、だれと、どんな暮らしをしているのだろうか。

 

直美は会社で、企画室のデザイナー澄田ひとみと親しくしていた。

この世界にも澄田は存在している。

前の世界と同様、澄田が直美と親しくしているなら、現在直美が住んでいる場所を知っているかもしれない。

すでに結婚して家庭を築いていると、田賀係長から聞いた。

だが、僕にとっては少し前まで一緒に暮らしていた妻なのだ。

 

「澄田さん」

仕事が終わって、帰ろうとしている澄田を事務所の出口で呼びとめた。

「ちょっと、訊きたいことがあるんだけど」と言って、1階にある商談室に誘った。

「以前、働いていた小坂直美さんって、今どこに住んでいるか知っている?」
「知ってますよ。毎年年賀状が届きますから。確か、今年も来てましたよ」と答え、「もう、辞めて随分になりますけど、どうかしたんですか?」と、訊く。

僕のスポンサーが小坂直美を知っていて、今どこに住んでいるかを知りたがっていると、適当に嘘を付いた。

澄田は疑うことなく、「年賀状を調べて、明日持ってきます」と明るく応えた。

翌日、澄田は直美の住所を教えてくれた。

結婚して、名前は坪倉直美に代わっている。

8歳の男の子と5歳の女の子がいると、澄田は教えてくれた。

住所は和歌山市の聞き慣れない町名になっていた。

 

**************************

 

滝本良平は電車を乗り継ぎ、小さな駅で降りた。

大阪の中心部から、1時間ほどで着いた。

5年前から開発が進んでいる、新興住宅地だ。

駅前はロータリーになっており、タクシーが数台客待ちをしている。

地方銀行と、駐車場を併設したスーパーマーケットが並んでいる。

良平は地図を持って、目的の住宅地の方向に向かって歩いた。

寒さが少し和らぎ、春めいた風が通り過ぎていく。

国道の向こうに、小さく家並みの屋根が見えた。

小坂直美は結婚して、この住宅街に住んでいる。

 

3日前、帰り仕度をしている時、田賀係長に呼び止められた。

話があるというので、会社近くの喫茶店に入った。

田賀は良平が澄田さんから小坂直美の住所を聞いていることを知っていた。

「絶対に、会いに行ってはダメだ」と、田賀は強い調子でいった。

そして、7年前に会社で起こった、ある出来事を教えてくれた。

 

小坂直美が入社して3年目、営業社員の不祥事が発覚した。

それは森重雄という営業主任が下請けの業者から仕事を発注する見返りにリベートを受け取っていた事件だった。

森は主として広告サイン制作の仕事を受注していた。

受注をするために、得意先の担当者を接待する交際費が必要だった。

だが、会社では交際費が限られているので、接待する費用をねん出できない。

そこで、森は考えた。

下請けのサイン業者N社の社長に、仕事を発注する見返りとしてバックマージンをもらうことを持ち掛けた。

当初、森は仕事を取るためであり、会社のためだという意識があった。

だから、会社名義のメイン口座とは別の、第二の銀行口座を使ってN社から入金された金額を出し入れしていた。

当然会社名義の口座なので、経理の社員しか出金できない。

森は新入社員の小坂直美を使って、銀行から出金させていた。

当初金を手にした森は得意先の担当者を高級なラウンジに接待して、受注額を増やしていた。

この行為を一部の上司は知っていたが、見て見ぬふりをしていた。

会社の営業成績が増加することなので、黙認していたのだ。

そして、森はその金の一部を上司や同僚との飲み食いにも使っていた。

森の営業成績が上がり、N社からの入金も増加していく。

すると、森はその金を個人的な遊興費にも使用するようになった。

 

そのことを告発したのは小坂直美だった。

会社の詳しい事情を知らない新人の直美は森から指示されるとおりに、第2口座から出金して森に渡していた。

だが、出金が頻繁になってくると、森の行動に疑問を抱きはじめた。

直接森に質したところ、「営業マターだから、指示通りするように」と言われた。

どうしても納得できない直美は経理担当の上司に相談をした。

やがて、この案件が会社の上層部の知ることとなった。

会社の売上に貢献していたこともあり、一部の上層部から不問に付す意見もあった。

だが、使用した金額があまりにも多額だったことや森の個人的な遊興費に使われていたこともあり、森は懲戒処分となった。

処分は経理や営業の管理職にも及んだ。

知らなかったとはいえ、銀行から出金をしたとして小坂直美も懲戒処分となった。

森は依願退職し、しばらくして、小坂直美も退社した。

 

小坂直美が自分の行為に疑問を抱き、最初に相談したのが良平だったと田賀係長はいう。

なぜ、良平に相談したのか、そのいきさつは判らない。

直美と良平の関係について、田賀係長は知らないし、社内の誰も知らない。

 

川のせせらぎが聞こえてくる。

道路と住宅街を分けるようにして、河川が蛇行していた。

橋を渡ると、右手に緑に包まれた公園があった。

木々の間から、鮮やかな赤と黄色の遊具が見える。

公園を通り過ぎると、クリーニング店と小さな食料品店が並んでいる。

辺りには50坪程度の区画に分けられた敷地に、車庫付きの家屋が続いていた。

良平は地図を広げ、暗記していた番地を確かめた。

2筋目を曲がると、目的の家がある。

 

昨日別れる前、田賀は良平に言った。

「今君が生きるこの世界で、君と小坂直美がどんな関係だったか、誰も知らない。今、小坂直美は別の男性と家庭を築き、幸せに暮らしているだろう。他の世界で君と夫婦であったとしても、もうこの世界では全く関係が無いんだよ。だから、会ってみようなんて考えないほうがいい。君は、この世界での人生を歩むしかないんだ」

 

滝本良平はその家の前で立ちつくした。

外壁にベージュのサイディングを使った2階建の家屋は初春の陽光に照らされていた。

カーポートには車が無く、門扉が開いて間の抜けたような空間が広がっていた。

玄関回りには、パンジーの鉢植えが所せましと並べられている。

直美と暮していた家とそっくりだった。

直美は冬から春にかけて、好んでパンジーを植えていた。

「パンジーの花名はフランス語の<思う(パンセ)>から名付けられている」と、直美は言っていた。

そして、花言葉は<私のことを思って>だと付け加えたのを思い出した。

 

表札には澄田から教えられた、<坪倉>という名字が彫ってあった。

確かに、この家で直美は暮しているのだ。

良平はゆっくりと家の前を通り過ぎた。

人の気配が感じられない。

留守なのだろう。

20m程行きすぎて、また、引きかえした。

すると、隣の玄関から子供を連れた女性が出てきて、良平の姿をチラッと見た。

見知らぬ男の姿を怪しんでいる様子だった。

<絶対に会いに行ってはダメだ>と言った田賀の言葉が頭をよぎった。

良平は自分の行動が惨めに思えてきた。

この世界で小坂直美という女性は良平の人生と全く違う道を歩んでいる。

これは夢なんかじゃない。

動かすことができない現実だった。

 

「もう、帰ろう」

良平は頭にこびりついた幻影を振り払うようにして、早足でその場を離れた。

そして、駅のほうへ向かって、歩きだした。

 

駅前のスーパーマーケットは昼前の買い物客でにぎわっていた。

ロータリーには路線バスやタクシーが停車している。

良平は駅舎の中に入り、時刻表で上り電車の時間を確認した

到着までに20分程時間があった。

良平は駅舎の入口近くに並んでいるベンチに座った。

駅前の風景が開放されているドアの間から見えた。

下り電車が到着し、乗客が改札口から吐き出されるように出てくる。

 

黒いポロシャツの男性が二つのキャリーバックを引きずりながら、良平の前を通り過ぎた。

旅行か出張の帰りなのだろう。

男は駅舎を出て、ロータリーの方へ向かっていく。

 

「ヒデちゃん」

ロータリーの方向から、女の声が聞こえた。

男は女の方向へ進んでいく。

男が進む先には荷台を空けたパジェロが停まっていた。

車の横には女性と幼い女の子が手を繋いで立っている。

子供は女性の手から離れ、男に駆け寄っていく。

男は飛びつく女の子を抱き上げた。

その後ろに、女がゆっくりと近づいていく。

心臓が急に高鳴った。

良平は目を見開いて、女の顔を見た。

直美だった。

 

夫を迎えるシーンの中に、直美の姿が浮き上がって見えた。

良平はベンチから立ち上がり、呆然とその家族を見つめた。

気持ちは直美に近づこうとしていたが、足が前へ進まない。

男は荷台に二つのキャリーバックを積み込んで、ドアを閉めた。

直美は後ろの席に女の子を坐らせてから、運転席に乗り込んだ。

男が助手席に乗ると、パジェロはゆっくりと動き出した。

 

車は良平の視界から徐々に遠ざかり、やがて消えてしまった。

立ち尽くしていた良平の脳裏に、遠い過去の記憶が浮かび上がってきた。

男が車の荷台に積み込んだキャリーバックからはみ出していた物体。

それはカメラの三脚だった。

 

良平は駅舎に戻り、到着した上り電車に乗り込んだ。

車窓から見える山の稜線を眺めていた。

夫を迎えている直美の笑顔を思い浮かべた。

「そうか、そういえば、二人目の子供が生まれる前だったなぁ。あの時、同窓会が…」

不祥事に巻き込まれて会社を依願退職した後、坪倉という美大の友人と再会した。

そして、この世界で、直美はあの男と結ばれたのだ。

 

「パパ、早く帰ってきてね」

朝、家を出る時、良平の背中に次女の洵子が大きな声で言った。

ふり返ると、開け放たれた玄関ドアの向こうで、妻の浪江と長女昌枝が洵子の後ろで重なる様にして手を振っていた。

この世界にやってきて、3ヵ月が経った。

徐々に、家族であるという意識が芽生えてきた。

 

何層にも分かれた運命の中で、それぞれの良平が生きている。

以前に暮らしていた世界では、良平と入れ替わった良平が直美と暮らしている。

違う世界に転がり込んだ良平も突然の変化に驚いているだろうし、戸惑っているに違いない。

もう引き返すことは出来ない。

 

良平の乗せた電車は終着駅に近づき、ゆっくりと速度を緩めていった。

降りようと立ちあがった時、小さな声が良平の耳もとをかすめた。

<私のことを思って>

良平は後ろを振り向いたが、そこにはカバンを持った数人の女子学生が出口のドアに向かって立っているだけだった。

良平は大きく息を吐いた。

そして、開いたドアから出ていく乗客たちに押し出されるように電車を降り、早足で家路を急いだ。

 

おわり

 

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20年前、東野圭吾が「パラレルワールド・ラブストーリー」という小説を出している。

もちろん、私のような素人の小説もどきとは比較にならないほど、脳科学技術の題材を精密なタッチで描いたストーリーになっている。

来年、映画化されるという。

 

学生時代、百貨店の「そごう」でアルバイトをしていました。

その時、社員食堂で知り合った女子大生がいました。

話しやすい女性で、何度か喫茶店でお茶しました。

最近、ふとその女子大生のことを思い出したのをきっかけに、この小説を書いてみました。

 

登場人物の女性を阿村浪江(安室 奈美恵)とか小坂直美(大坂なおみ)なんて、話題になっている名前にして、

少し私小説っぽい所もありますが…。

題名にしたパンジーは冬から秋にかけて、玄関回りに嫁さんが植えている花です。

 

嫁さんに読ませたら、どんな反応をするだろうか。

author:金ブン, category:読書, 09:42
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小説「パンジー」

JUGEMテーマ:趣味

 

うんざりした気分で、天気予報を確認する。

またまた、台風がやってくる。

風対策で玄関回りの植木鉢を家の中に移動させた。

先日の台風で、移動させていたものを元通りの位置に直したところだったのに。

 

まるで、ギリシャ神話に出てくるシシュポスに課せられた刑罰。

その刑罰とは山に大きな岩石を押し上げ、頂上まで届くとその石は転げ落ちて、シシュポスはまたそれを押し上げねばならないというものだ。

同じ行為を繰り返すほどツライ刑罰は無いそうだ。

 

そろそろ、台風もご勘弁願いたいものだ。

 

今年の3月頃、短編小説を書いた。

何度か書きなおそうと思っていたが、今回、ブログにアップすることにした。

ちょっと長いので、今週は前編だけアップします。

 

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小説「パンジー」(前編)

 

足早に通り過ぎようとする男に、突然直美は声を掛けた。

「坪倉くん」

男は立ち止り、ふり返った。

直美の顔を見て、首を傾げた。

「ヒデちゃんだよね」と、再び直美が言った。

男はすぐに「なんだ、小坂さんか」と応え、微笑んだ。

そして、人の流れを気にしながら、良平たちの方へ近づいてきた。

「久しぶりだね」と男は白い歯を見せて、直美に言った。

「本当に久しぶりね。卒業以来かしら」

「そうか、卒業以来か。5年ぶりかな。直ちゃん、変わらないね」

そう言うと、男は隣で子どもを抱いている良平に視線を移した。

すると、直美は「あぁ、主人です。子供は8カ月の長男よ」と、慌てて良平と亮輔を紹介した。

「滝本です」と言って、良平は軽く頭を下げた。

男も「坪倉です」とはにかむように頭を下げ、良平に抱かれて眠っている亮輔を見て、「そうか、直ちゃんもお母さんになったんだ」と笑顔を見せた。

「そうなのよ。当時のように自由気ままな大学生ではないのよね」

直美と男は通行人の流れを避けて、歩道の横に寄った。

「坪倉君は今何してるのよ?」

「今はね、小さな雑誌社でカメラマンのようなことをしてる」

ふたりの会話が続きそうなので、良平はふたりの立っている位置から離れ、スポーツ店のショーウィンドウの前に立った。

ウィンドウ内に陳列されているゴルフウェアやテニスウェアを着たマネキンをぼんやりと眺めていた。

しばらくすると、直美の手が良平の肩に触れた。

「美大の時の友達よ。カメラが好きな人だったけど、やっぱり写真関係の仕事をしているんだって」

直美はひとりごとのように言って、眠っている亮輔の頭を撫ぜた。

「秋ごろ、同窓会を企画しているんだって」と言った後、「秋だったら、行けそうにないわね」と続けて、自分の腹部を撫ぜるしぐさを見せた。

二人目の子供の出産予定日は10月下旬だった。

良平は男が去った方向を見つめた。

春の風に揺れている街路樹の向こうに、横断歩道を渡っていく男の姿が見えた。

男の背中のリュックから、カメラの三脚がはみ出していた。

 

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女学生は珈琲カップを口に運ぶ時、少し微笑んだ。

上唇の近くに、小さなホクロが目についた。

僕は百貨店の従業員食堂にある喫茶ルームにいた。

「そうなんだ。キャロル・キングが好きなんだ」と、女学生は目を輝かせた。

女学生は僕と同じ階の売り場で働いていた。

 

その2日前、食堂で昼食を食べている時、テーブルの斜め前に座っていたその女学生から突然声を掛けられた。

「あなた、どこの大学生?」

唐突な質問に、僕は躊躇いながらも大学名を伝えた。

「そうなんだ、京都の大学なんだ」

女学生は頷きながら、阿村浪江と自分の名前を言った。

 

僕は紳士靴の特売場で、働いていた。

学生相談所で見つけた短期のアルバイトだった。

売り場が同じ階なので、浪江は僕が紳士靴の特売場にいるのを知っていたと話した。

浪江は大阪の大学に通っていた。

実家は徳島で、大学の近くに下宿していると言った。

僕と同じ卒業間近の4回生だった。

 

食事を済ませた後、僕が喫茶ルームに誘った。

「私も<タペストリー>は良く聴いているのよ」

浪江は音楽の話をしていた時、キャロル・キングのアルバム名を口にした。

そして、ビートルズや吉田拓郎など、僕が好きなミュージシャンたちのレコードをよく聴いているとも言った。

二人で紅茶を飲みながら、映画や本の話でも盛り上がった。

 

その後も昼休みになると、喫茶ルームで会った。

1週間のバイト期間が終わろうとしていた。

浪江も短期のアルバイトなので、僕と同じ日にバイト期間が終了する。

別れれば、もう二度と会う機会はない。

「下宿の電話、教えてくれないか?」

僕は勇気を出して、浪江に言った。

すると、ためらうこともなく浪江は手帳の切れ端に電話番号を書いて、僕に手渡した。

浪江も好意を持っている、と僕は感じた。

僕は電話番号を書いた紙を二つ折りにして、上着のポケットに入れた。

 

「きっと、連絡くださいね」

アルバイトを終えて百貨店の従業員口を出る時、浪江は片手を高く上げて手を振った。

「必ず、電話するよ」と、僕は笑顔で応えた。

 

帰りの電車の中、ポケットにあるはずの紙が無くなっているのに気付いた。

地下鉄の乗車券と一緒に入れたはずだが、乗車券を取り出す時に落としてしまったようだ。

浪江に連絡を取る手段を失くしてしまった。

折角彼女が出来るチャンスだったのに…。

残念だと思ったのも束の間で、卒業論文の制作や卒業旅行など学生生活最後の時を慌ただしく過ごす中、その記憶は消えてしまった。

 

それから数ヵ月後、僕は大学を卒業し社会人になった。

 

昭和50年4月、僕は広告代理店のK社に就職した。

その頃、伝説のロックバンドキャロルが解散し、ベトナム戦争が終わった。

会社は主にK電車の広告を扱う、従業員50人程の小さな会社だった。

僕は営業に配属され、沿線の会社に交通広告を販売して歩いた。

就職して3年後、小坂直美が事務員として入社した。

直美は大学を卒業したばかりで、愛らしいほどの初々しさが感じられた。

実家は奈良で、両親は土産物屋を営んでいた。

いつしか、お互いが惹かれるようになり、交際が始まった。

2年間の交際を経て、僕たちは結婚した。

 

東京ディズニーランドが開園し、ドラマ「おしん」がブームになった昭和58年、長男亮輔が生まれた。

その年、両親の資金援助を受けて、H電鉄沿線に一戸建ての住宅を買った。

2年後に、長女沙代子が生まれた。

日本は好景気の中にあり、株や土地価格が高騰した。

会社は順調に業績を伸ばし、その勢いに押されるかのように僕の営業成績も上がっていった。

そして、営業主任に昇格した。

 

クリスマスが近づいたある日、会社の忘年会がK駅の居酒屋平六亭で行われた。

宴会は盛り上がり、僕は上司や同僚社員から注がれるままに杯を重ね、かなり酔っぱらっていた。

2次会に誘われ、上司の奥村係長と同僚数人でスナック「コスモス」へ行った。

「コスモス」は係長馴染みの店だった。

僕はここでも水割りを3杯飲んだ。

そして、酩酊した僕の記憶はスナックを出たところから薄れていった。

 

「大丈夫ですか」

男の声で、僕は目が覚ました。

駅の階段下で倒れている僕に、駅員が声を掛けたのだ。

階段を踏み外したようだが、全くその記憶がない。

背広はどこも汚れていないし、身体のどこにも異常を感じなかった。

駅員に礼を言って、いつもの帰り道を急いだ。

歩いて20分、家の前までたどり着いた。

ポケットから鍵を取り出し、玄関ドアを開けた。

リビングに入って明かりを付ける。

壁に掛かった時計の針は午前13時を指していた。

「うん?」

部屋の雰囲気に違和感を覚えた。

まだ、酔いが覚めていないのだろうと思いかえした。

水を1杯のみ、2階の寝室に入る。

妻の寝息が聞こえる。

僕は寝巻に着替え、ツインベッドにもぐりこんだ。

 

翌朝、肩を揺さぶられて、僕は目覚めた。

「早く起きないと、会社へ遅れるよ」という妻の顔を見て、僕は驚いた。

見知らぬ女が立っていた。

女は驚いている僕の顔を見て、不審そうに首をひねった。

そして、「寝ぼけないでよ」と言って、部屋を出て行った。

僕は起き上がり、頭を振った。

家を間違えたと思い、昨日のスーツを着て、カバンを持って階段を下りる。

リビングに入ると、さらに驚いた。

さっきの女と、見知らぬふたりの女の子が食事しているのだ。

「お父さん、おはよう」と、女の子たちは僕の顔を見て言う。

呆然と立っている僕に、「早く食べないと、遅れるよ」と女が言う。

妻の直美と亮輔、沙代子はどこにいったのだろう。

「あのぉ、僕、家を間違ったようで…」というと、みんなが不審そうな顔を向ける。

「あなた、朝からどうしたの。ふざけないでよ」と女が言い、女の子たちも「お父さん、変になっちゃった」と口を揃える。

僕は状況が全く理解出来ず、仕方なく苦笑いを見せた。

もう酔いは完全に覚めているはず…。

食卓にはこんがり焼けた食パンと目玉焼きの皿が置かれている。

女とふたりの少女が不思議そうな眼で、僕を見つめている。

僕は気まずくなって、「えっと、どうなっているのかな。とにかく、出かけます」と呟くように言って、慌てて外へ出た。

「どうしたのよ」と、後ろから女の声が聞こえ、「お父さん、いってらっしゃい」と叫ぶ女の子の声が続いた。

 

玄関を出て数メートル歩いたところで、振り返る。

外から眺める戸建ては確かに僕の家だった。

だが、花が好きな直美の鉢植えがなかったし、いつも掛かっている玄関ドアのリースが無い。

近所の家並みも同じだったが、少し様相が違っているようにも感じる。

歩き慣れた駅までの道をゆっくりと歩く。

いつもどおりにH電車のM駅から普通電車に乗り、ぼんやり車窓に流れる景色を眺めた。

風景はいつもと変わりないのだが、ところどころで建物や家並みがいつもと違うようにも感じられる。

背広の内ポケットから手帳を取り出した。

それは今まで使っていたものとは違っていた。

ページをめくると、見慣れた僕の字体が並んでいる。

だが、書かれているスケジュールに、全く記憶がない。

昨日の予定には<忘年会>と書かれている。

確かに昨日は忘年会だった。

二次会まで参加して飲み過ぎたのは覚えている。

 

電車がU駅に到着して、地下鉄に乗り換えた。

地下鉄の二つ目のY駅で降りて5分程歩くと、会社が入居している複合ビルがある。

エレベーターで3階まで上がり、事務所に入った。

やはり、ここも昨日までの事務所とは違っている。

始業時間9時の15分前だったが、数人の社員が出勤している。

「おはよう」

僕は営業で部下の川辺に声を掛けた。

すると、「あれから、無事に帰れましたか?」と、川辺は笑いながら言う。

「かなり、飲んではりましたね。ふらふらでしたよ」

「かなり呑んだみたいやなぁ」と僕は曖昧に返事をしながら、川辺からそれとなく昨日の宴会の様子を探った。

「なんだ、主任、覚えてないんですか」と言いながら、共に二次会に参加していた川辺は、その時の様子を思い出しながら話す。

その話を聞きながら、僕はどうも変だと感じた。

二次会の場所が昨日と違っている。

忘年会の「平六亭」は合っているが、二次会は「コスモス」というスナックで呑んだはずだが、川辺は加藤部長馴染みのスナック「真珠のなみだ」に行ったというのだ。

 

違和感を覚えながらも、僕は自分のデスクに座って、いつもどおりの仕事を始める。

しばらくして事務所内を見渡すと、見慣れない社員がいた。

所内を見回して、他の社員を確かめてみる。

いつもの見慣れた社員たちが動き回っている。

だが、ふたりだけ知らない社員が目についた。

机に貼ってある座席表で確かめると、営業担当の田賀と手配担当の杉岡と書いてある。

「おい、最近新しい社員が入ったか?」と、隣に座っている部下の足立に訊く。

「ええっ、誰のことですか?」

足立は不審げな表情で、「去年から新人なんて、入社してないじゃないですか」と、回りを見る。

そして、「どうしたんですか?」と、再び僕の顔を凝視する。

僕はその視線に気まずさを感じて、「ああ、そう、そうだったな。いや、ちょっと気になって」と、慌てて話を打ち切った。

 

その時、事務の女子社員が「滝本主任、ご自宅からお電話です」と、電話を取り次ぐ。

受話器を取ると、「あなた、大丈夫?」と女の声が聞こえてくる。

今朝、家にいた女だ。

「なんか、変な感じだったから。よその家にいるみたいなことを言うものだから…。心配になったのよ。頭がおかしくなったんじゃないかと思ったわ。疲れてるんじゃないの?」

女は朝の僕の態度が気になって、電話を掛けたようだ。

僕は「昨日、飲み過ぎたんで、調子が悪かったからだろう。すまない。心配はいらないから」と、その場を取り繕った。

「それなら、良いんだけど。気を付けてね」と、女は納得した様子で電話を切った。

確かに、何か変だ。

何かが狂っている。

頭が変になったのだろうか。

 

僕は労務担当亀井の席に行って、社員の社会保険の資料を見せてくれるように言った。

亀井はファイルを出してきて、僕の家族の書類を机に置いた。

配偶者のところに、「滝本浪江」とあり、扶養家族には「長女昌枝」「次女洵子」となっている。

直美や長男亮輔、長女沙代子の名前はどこにもない。

「浪江」という名前を見て、小さな記憶の欠片が脳の中で次第に大きくなってくる。

今朝見た、女の顔を思い出す。

アルバイト先で知り合った女学生に似ているような…。

そういえば、浪江のような名前だった。

でも、なぜ今、僕の妻になっているのか。

 

訳が分からない状態の中で、僕は出来るだけ平常心を装い、いつも通り仕事をする。

だが、ところどころでくい違いが生じる。

昨日まで仕事をしていたクライアントが他の営業担当の受け持ちになっていたり、社内での打ち合わせの日が違っていたり…。

僕は報告書類や手帳を確認しながら、何とかその場を取り繕って業務を続けた。

だが、田賀という営業係長に声を掛けられた時は困った。

僕は全く田賀係長という人物に記憶がないのだ。

僕とは別の営業グループの責任者のようだ。

親しそうに声を掛けてくる。

だが、僕が戸惑ったリアクションをすると、「どうしたんだ?」と、不思議そうな表情を見せた。

 

別世界にいるような、不思議な一日が終わった。

会社を出て、駅近くの喫茶店に入った。

混乱した気持ちを整理したかった。

「あれ、滝本さん、珍しいですね。夕方に来るなんて」

初めて入った店だと思ったのに、ウェイトレスが親しそうに声を掛けてくる。

「ああ、こんにちは。珈琲をください」と、素っ気なく小声で答える。

そのウェイトレスなんて、知らないのだ。

しばらくすると、ウェイトレスは「珈琲とは珍しいですね。いつも紅茶なのに」と言って、テーブルに珈琲カップを置いた。

僕は苦笑いして黙っていると、ウェイトレスは「ごゆっくり」と言って、カウンターの方へ戻っていった。

珈琲を啜った。

元々、僕は紅茶党だったが、直美と結婚してから珈琲好きになった。

日に4,5杯の珈琲を飲む直美に影響されて、僕は珈琲党に変わったのだった。

それにしても、何かが変だ。

妻の直美が浪江という女にかわって、男と女だった子どもたちもふたりの女の子に変わっている。

家庭もおかしいし、会社もおかしい。

知らない社員がいたり、仕事も昨日とは少しずつ違っている。

僕の頭はどうかしてしまったのだろうか。

それとも、精神病を患ってしまったのだろうか。

昨夜、二次会の帰り道から記憶がない。

駅で転んだようだ。

転んだにしてはどこも痛くなかった。

その辺りから、身の回りの雰囲気がおかしくなった。

妻になった浪江のことは考えた。

「そうだ、確かにそうだ」

百貨店でアルバイトした時に知り合った女学生だ。

なぜ、直美に変わって浪江という女が僕の妻なのか。

珈琲を飲みながら記憶を辿るが、思考は堂々巡りするばかりだった。

 

「すみません。ちょっと変なことを訊くんやけど。前回僕がここへ来たのはいつだったっけ?きみ、覚えているかな?僕は誰と一緒に来たのかな?」

レジで支払う時に、僕はウェイトレスに尋ねてみた。

ウェイトレスは少し考えてから、3日前の朝、田賀さんや長坂さんらと来店したという。

田賀は今日話した営業課長で、知らない人だ。
長坂は良く知っている。

入社5年目の営業社員で、帰る方向が一緒なので何度も立ち呑みに行ったりしている。

 

喫茶店を出て、僕はK電車に乗りK駅で降りた。

昨日二次会で行ったスナック「コスモス」を訪ねてみようと思った。
酔いつぶれた後のことを知りたかった。

「コスモス」は奥村係長の馴染みの店で、昨日髭を生やしたマスターを紹介された。

駅近くの商業ビルの2階にあった。

僕はビルの看板を見上げたが、「コスモス」の店名が見当たらない。

階段で2階に上がり、「コスモス」のあった場所の前まで来たが、店名はスナック「チエミ」になっている。

開店しているようなので、僕はドアを開けた。

「いらっしゃいませ」と、カウンターの中にいる女性が顔を向けた。

「このビルでコスモスという店を知りませんか?」と、僕は女性に尋ねた。

その女性によると、「コスモス」は1年前に退店して、その後に女性がこのスナック「チエミ」を開店したという。

やはり、営業の川辺が言っていたように、昨日の二次会は加藤部長馴染みのスナック「真珠のなみだ」に行ったということなのだろうか。

僕にはスナック「真珠のなみだ」に行った記憶はないし、その場所も知らないのだ。

どういうことなんだろう。

僕は憂鬱な気分を引きずりながら、ネオン街を通りぬけK駅まで歩いた。

 

自宅の最寄り駅、H電車のM駅に着いた。

僕は駅務室のドアを開けた。

昨日、階段下で倒れている僕に声を掛けた駅員が机に座っていた。

駅員は書類から顔を上げ、「大丈夫でしたか?」と言って微笑む。
駅員は昨日のことを覚えていた。

「すみません。昨日ことですが、私はどんな風に階段から落ちたんでしょうか?」

僕は駅員に尋ねたが、駅員は階段の下で倒れているのを見つけただけで、落ちるところは見てないと答える。

僕の記憶はスナックから出たところまでだ。

その次の記憶は階段で倒れているところだった。

その間、何かが変わってしまった。

 

M駅から自宅までの道を歩く。

やはり、家には浪江という女と、二人の女の子がいるのだろうか。

直美や亮輔、沙代子はどうしてしまったのだろうか。

僕は憂鬱な気分で、家路を歩いた。

家の前までやってきた。

ゆっくり、2階建ての我が家を眺める。

玄関横のガレージに車が停まっている。

今朝は確認していなかったが、明らかに僕の車ではない。

車好きの直美がSUVのパジェロという車が気に入って、昨年の11月に買ったはず。

だが、ガレージに置かれているのはカローラなのだ。

 

僕は玄関ドアを開けて、恐る恐る小さな声で「ただいま」と言った。

「パパ、お帰りなさい」と、女の子がリビングから出てきて、僕を迎えた。

僕にはふたりの女の子がいることを、会社で確かめた。

次女の洵子だろうかと思いながら、もう一度「ただいま」とその子に言って、リビングに入った。

ダイニングテーブルの向こうに、会社の社会保険資料に配偶者と書かれていた浪江が台所にいる。

迎えた女の子よりも少し大きい少女がリビングのソファに座って、テレビを観ている。

長女の昌枝だ。

「お父さん、大丈夫?ママが心配してたよ」と、昌枝が僕にいう。

僕は「大丈夫だよ」と、ぎこちない口調で答える。

「あなた、心配してたのよ。本当に大丈夫?」と言いながら、浪江が台所から食卓に料理を運ぶ。

「ああっ、何とか。ちょっと、昨日は飲み過ぎたみたいだ」と、僕は浮ついた言葉で会話を繋いだ。

「今朝、家を間違ったとか何とかいうもんだから、びっくりしたわよ。頭が変になったんじゃないかと。若くてもボケる人がいるって言うから…」

僕は「すまない」と応え、すぐに「風呂に入るよ」と続けた。

身に覚えのない家庭の雰囲気から逃れようと、風呂場に向かった。

家の間取りは変わりないのだが、置いてある調度品などが違っている。

 

湯船に浸かりながら、僕は考える。

この現実は夢じゃない。

僕は正気だ。

僕自身の脳が狂っているという意識は全く感じない。

家族が僕を騙している様子でもない。

とにかく元に戻るのを期待して、今はこの現実を受け止めるしかしょうがない。

 

浪江はあの時の女学生に違いない。

「学生の頃、キャロル・キングの<タペストリー>をよく聴いていたと言ってたよな。」

夕食を終えた僕は百貨店での会話を思い出しながら、浪江に話した。

食器を洗い終えた浪江は「かなり昔の話だわね」と言いながらも、「あなたとは音楽の趣味が合ったものね」と、遠くを見つめるしぐさを見せる。

上唇の近くに、小さなホクロが目に付いた。

そこで、僕は「君が電話番号の書いた紙をくれたな。それからどうなったんだっけ?」と、思いだすふりをしながら、探ってみる。

「あなた、覚えてないの?何日か後に電話してくれたのよ」と、ダイニングテーブルを拭きながら答える。

確か、あの時、僕は電話番号の書いた紙を落としてしまった。

だから、浪江に連絡することが出来なかったのだ。

それで、僕たちの関係はそれで終わってしまったはず。

ところが、あれから15年経った今、突然浪江は僕の前に現れた。

僕たちは結婚して、家庭を築き、二人の子供を育てていることになっている。

これはどういうことなんだ。

 

過去の僕がどんな風に暮していたのかを、浪江や子どもたちとの日常会話の中で観察する。

身に覚えの無い過去を、さも自分の行動であったようにと振る舞うのは難しい。

時折、妻や子供たちが僕の言葉を変に思うこともあった。

「あれ、お父さん、それ先週言ったよ。もう忘れたの?」と子供たちに言われたり、「あなた、しっかりしてよ。前にも言ったじゃない」と、浪江から不思議がられることもあった。

僕にとって、全く身に覚えの無い暮らしに放り出されたのだから、それも仕方が無いことだ。

だが、浪江は時折「あなた、最近、おかしいよ。病院でも行って、頭の中を調べてもらったほうが良いんじゃない」と言って、今までと違った夫の言動に違和感を覚えている様子だった。

 

僕と違った僕の暮らしを、家庭内に落ちている足跡で想像する。

アルバムの写真や過去の手帳などをそっと観察して、これまでの浪江との結婚生活や子供の成長の記録を辿ってみる。

写真には確かに僕が写っている。

結婚式では浪江とケーキ入刀をし、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている。

ほんの1週間前の写真では二人の子供とどこかの遊園地で、メリーゴーランドに乗っている。

身に覚えの無い過去だが、写っているのは確かに僕だ。

 

家庭内での僕は徐々にその生活に慣れてきた。

いや、慣れようと努めた。

妻の直美が浪江に代わり、長男の亮輔や長女の沙代子が昌枝や洵子に入れ代わってしまったが、今の僕はその現実を受け入れるしかなかった。

いつか何かの拍子に、また元の生活に戻れるだろうと信じていた。

 

だが、家庭よりもっと多くの時間を費やす会社内では様々な祖語が生じる。

身に覚えの無い得意先が存在していたり、やった記憶もない仕事が記録に残されていたり。

会社での仕事は報告書や実績表などに記録されているので、それらを丹念に辿っていくと、僕でない僕の仕事がかなりはっきりと見えてくる。

引き継ぎされない前任者の仕事を突然引き継ぐようなものだった。

だから、ところどころで他の社員との行き違いがあった。

すると、僕に向ける社員たちの視線が変わってくる。

「こんなに忘れっぽい人だったのか」とか、「頭が変になったんじゃないか」と、陰で噂をされているようにも感じた。

 

一週間ほど経ったある日、営業責任者の足立課長から会議室に呼ばれた。

「滝本君、君疲れているのか」と、足立課長が切り出した。

「最近、君の行動がおかしいという社員がいるんだが…」

静かな室内に、太り気味の課長の低い声が響く。

足立課長は僕の仕事上のミスが多いと指摘し、社員たちが病気ではないかと心配しているという。

「急に忘れっぽくなったという人がいるんだが、どうなんだ?」

自分に起こった生活の変化をいきなり説明しても、とても理解してもらえないだろう。

「ミスが多いことは自覚しています。ちょっと疲れているのかもしれません。とりあえず、病院へ行ってみますから」と、その場を取り繕った。

「ご心配なく。もう少し、時間をください」と、僕は課長を安心させようと続けた。

「滝本君は営業1課では大きな戦力なんだから、しっかりと自己管理をして、頑張ってもらわないと」と、足立課長は感情を押し殺したように静かに言葉を並べ、ゆっくりと席を立った。

 

その日の夕方、帰り支度をしていると、奥村係長が僕の席に近づいてきた。

いつもの強いポマードの香りが鼻に付いた。

奥村係長は僕の入社時の指導員で、いつも仕事の相談相手になってくれる上司だった。

「帰りにちょっと、居酒屋へ行かないか」と、誘われた。

隣のビル地下にある、洋風の居酒屋は勤め帰りのサラリーマンで賑わっていた。

一番奥の4人席に座り、ビールジョッキを合わせた。

開口一番、「身体は大丈夫?最近社内で、元気がないって、言われているようだが…」と、奥村係長が言う。

<やっぱり、その話か>と僕は思いながら、「今日、加藤課長に会議室で注意されました」と返す。

この1週間、僕の様子が少し変だと、奥村係長も感じているようだ。

何度か仕事のことで言葉を交わすことがあったが、会話中のくい違いが時々あった。

あの時以来、僕にとって世間の様子が置き換わってしまったのだから、その変化に対応できない。

大きなところで違っていなくても、細かいところでは全く記憶にないことが出現するのだ。

僕は自分の脳に異常があると思われたくないため、何とかやり過ごしているのだ。

当然、僕自身、自分の脳ミソがおかしくなったなんて、自覚は全くないのだ。

奥村係長は部下思いのやさしい上司だ。

今日は僕の異常な変化を心配して、居酒屋へ誘ってくれたのだ。

しばらく飲んでいると、田賀係長と川辺君が揃ってやってきた。

奥村係長が誘ったようだ。

4人は世間話をしながら、杯を重ねた。

ビールから日本酒やチュウハイに替った。

僕はもうひとつ話に加われなかった。

奥村係長は僕が入社当時から会社にいたし、川辺君が入社したときのことは良く知っている。

だが、田賀係長という人物を知らない。

忘年会の翌日以降、突然僕の前に現れた人なのだ。

それは家族が変わってしまったと同じだ。

4人で仕事の話になり、田賀係長が話に加わってくると、全く自分の記憶にない話題になってしまう。

「あの時は困ったよな、滝本君にも何度か納品を手伝ってもらったよな」と、田賀係長が以前の仕事のトラブルを話す時、僕は答えるのに窮してしまう。

「はぁ、そんなこともありましたね」と、曖昧な返事をする。

僕には全く記憶にない話なのだから、そう答えるしかなかった。

正直に今の僕の状態を説明したとしても、僕の頭がおかしくなったとしか思わないだろう。

とにかく、今を無難に切り抜けることしかない。

その内、この状態が1週間前の元の状態に戻っていることを望むしかない。

 

2時間程飲んで、お開きになった。

奥村係長と川辺君は同じK電車沿線なので、南行きの地下鉄に乗って帰った。

田賀係長はH電車沿線のT駅というので、U駅まで一緒に北行きの地下鉄に乗った。

「滝本君、もう少し飲まないか」

U駅に着くと、田賀係長が僕を誘った。

会話がかみ合わないのが不安なので僕は戸惑ったが、やむを得ず付いて行った。
H電車のU駅近くのショットバーに入った。

薄暗い店内はサラリーマンで賑わっていた。

二人掛けの丸テーブルに座って、水割りを注文した。

「この店、何度か来たことがあるのを覚えているか?」と、田賀係長が訊く。

僕にとっては初めての店だった。

「ええ、何となく…」と、曖昧に返事をした。

「覚えていないのか。2週間前に、この店に来たことを」

田賀係長は不思議な表情を浮かべ、じっと僕の顔を見る。

「もともと、最初にこの店を紹介してくれたのは君だよ」

僕にはその記憶がない。

そもそも、田賀という人物さえ知らないのだ。

「最近の滝本君はおかしいと思うんだ。仕事ではいろんなところで食い違うし、忘れていることが多い。それより、こうして話していると、どうもしっくりといかない。明らかに、以前の君と違うんだよ。」

田賀係長は水割りのグラスに口を付けた。

「僕は君が心配なんだよ。滝本君は最近の自分自身のことをどう感じているの?」

僕は黙ったまま、俯いた。

返す言葉が見つからない。

心の中にあるものをぶつけたら、どんなに楽だろう。

だが、今の僕の状態を伝えても、バカにされるに違いないのだ。

突然、世界が変わってしまったと言って、誰が信じてくれるだろう。

精神病院へ行くように勧められるだけだ。

「滝本君、僕のことを知らないじゃないか」

田賀係長が強い調子で言った。

「僕を知らないというより、君の記憶の中に僕は存在しないのじゃないか?」

静かなジャズピアノのメロディが店内に流れている。

「滝本君、良かったら正直に言ってくれないか。君はどうも変だ。なにが起きたの?」

田賀係長は僕の顔を覗き込むようにして言う。

僕の感情が心の器から吹きこぼれた。

「係長、信じてもらえないかもしれないけど、変になってしまったんです。どうしてしまったのか、全く解らないんです」

僕はそういうと、1週間前からの出来事をありのまま伝えた。

 

係長は真剣な表情で、時折頷きながら僕の話を聞いていた。

「こんな話って、信じてもらえないですよね。家族が突然入れ代わったり、会社の様子が違ってしまうなんて…」

僕は話し終えると、氷が解けて薄くなったウィスキーを一気に飲んだ。

女性たちが乾杯する声が店の奥から聞こえてきた。

田賀係長は「そうか」と呟いて、しばらく考えていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

 

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今日はここまでです。

 

滝本良平がなぜこんなことになってしまったのか。

来週、小説「パンジー」の後編をアップいたします。

 

author:金ブン, category:読書, 10:17
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村田沙代子の小説

JUGEMテーマ:読書

 

今週はエリート政治家や官僚の女性問題で、ワイドショーは大忙しだった。

「男と言う動物は」と、ツッコミを入れたくなるが、家庭内でそんな話題に触れると、自分に矢が向かってきそうなので、ただ黙殺する。

 

以前居酒屋で、友人のT君と夫婦生活の話になった。

その頃友人には愛人がいて、頻繁に奥さん以外と交尾をしていた。

「ところで、最近奥さんと交尾しているの?」という私の問いに、友人の返事が面白かった。

「そんなことしたらアカンやろ。家族で交尾したら、近親相姦になるで」

 

村田沙代子の「消滅世界」を読んだ。

世界大戦後、人工授精の技術が進み、家族もセックスも世の中から消滅してしまう。

夫婦間のセックスは近親相姦とタブー視され、恋愛は夫婦以外で行われ、架空のキャラクターとの恋愛も行われる。

究極的には男性も子宮を持ち、人工授精で妊娠するという実験的な都市が作られる。

家族、恋愛、セックス、子孫などの常識を覆してみたら、どんな世界が訪れるのだろう。

奇想天外だと思われる世界が描かれているのだが、今の人類が進化し続けていると考えると、こういう世界もあながち突飛とはいえないかもしれない。

独特の世界観を持つ村田沙代子はなかなか面白い作家だ。

 

この本を読む気になったのは、芥川賞の「コンビニ人間」を読んだからだ。

芥川賞作品は直木賞と違って、読みづらいところがあるが、この小説は一味違う。

単なるコンビニ店員の物語だが、とにかく、面白かった。

選考委員の評価も高かった。

山田詠美は、「十年以上選考委員を務めてきて、候補作を読んで笑ったのは初めてだった」、村上龍は、「この十年、現代をここまで描いた受賞作は無い」と評価している。

 

マニュアル通りに働くコンビニでしか生きていくことが出来ない主人公。

大学卒業後始めたコンビニのバイトが自分の身体に合っていて、18年目。

彼氏はなく、日々コンビニの食事で満足している。

夢の中でもコンビニの仕事から離れられず、コンビニで働く毎日が安らかな眠りをもたらしてくれる。

婚活目的で働くようになった男性と奇妙な共同生活が始まるが…。

 

社会の歪みを、登場人物のキャラを通じて滑稽に描いている。

作家本人もコンビニで長く働いているとか。

インタビューに応えている村田沙代子はなかなかユニークだ。

 

あと何冊か、この作家の小説を読んでみたいと思っている。

author:金ブン, category:読書, 13:30
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寝不足

JUGEMテーマ:読書

 

図書館で予約していた本の順番が次々と回ってきた。

3日間で7冊も。

 

藤崎 彩織「ふたご」

門井慶喜「銀河鉄道の父」

林真理子「西郷どん!上下」

カズオ・イシグロ「日の名残り」

若竹千佐子「おらはおらでひとりいぐも」

村田沙耶香「コンビニ人間」

 

直木賞、芥川賞、NHK大河ドラマ、ノーベル賞作家と、話題の本ばかり。

図書館の返却期限はT市が2週間、I市は3週間。

通常なら読むのにそんなに時間は掛らない。

だが、この1週間はとにかく多忙だった。

 

先週から今週に掛けて、4泊5日で宮崎へ行っていたからだ。

娘が大阪に引っ越すため、その手伝いのためだったが、ほとんどは孫のお守だった。

それに、その前後の日にシルバー人材センターのアルバイトが入っていた。

加えて、宮崎に旅立つ前日と前々日に、文化財ガイドのボランティアが2件入っていた。

さらに、文化財ホームページの更新やリニューアルする文化財ガイドブックの原稿作成も依頼されていた。

 

そんな状態なので、昼間は読書に割く時間が無かった。

 

最近、私は午後9時にベッドに入る。

録画した番組(英会話や情報番組)を観た後読書をするのだが、数ページ読むとまぶたが重たくなってくる。

以前は、朝方(4時〜5時)に目を覚まして本を読む習慣があった。

しかし、このところ齢のせいかすぐにまどろんでしまう。

 

これでは読書が進まない。

 

夜中、必ず1時か2時にトイレへ行く習慣が付いた。

その時起きると、目が冴えてくる。

不思議と頭がスキっとしている。

先週から、その時間に本を読みだした。

すると、それが習慣化してきた。

(1,2時間程読んで寝るのだが)

 

「コンビニ人間」を除いて、なんとか読み終えた。

翻訳本の「日の名残り」は読みづらいところがあったが、その他の本はスラスラとページが進んだ。

特に、宮沢賢治の生涯を父親の立場から綴った「銀河鉄道の父」は興味深い小説だった。

さすがに直木賞作品は読み応えがあった。

宮沢賢治のイメージが変わった。

 

さて、夜中に起きる習慣は今も続いて、昼間にやたらと眠たくなる。

食後に15分程度居眠りをするのは健康に良いという。

シエスタとはいかないが、昼食後はうとうとしている。

これが気持ち良いのだ。

author:金ブン, category:読書, 09:02
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あん

JUGEMテーマ:読書

 

最近の安部内閣の乱れようを見ていると、功罪はあるにしても、小泉内閣はよくやっていたと思えてくる。

時代背景は違ってはいるが、拉致問題や道路公団の民営化など、前向きに問題解決に取り組んでいた姿が懐かしい。

 

思い出す場面がある。

小泉首相がハンセン病の人たちの手を握って、謝罪する場面だ。

平成13年のことだから、もう15年以上前の話だ。

この年、ハンセン病国家賠償請求訴訟で国は敗訴し、控訴を断念した。

そして、国家賠償請求が認められました。

 

その昔ハンセン病に罹患すると、自宅の離れ部屋に隔離され、ひっそりと暮らさなければならなかった。

家族に迷惑がかからないようにと、住み慣れた故郷を離れて放浪する人たちもいた。

松本清張の「砂の器」には、村から追い出されて各地を放浪する父子が描かれている。

 

伝染力が強いという間違った考えが広まり、偏見を大きくした。

明治の「癩予防法」に続いて、昭和28年に「らい予防法」が成立し、国家による隔離政策は行われた。

 

昭和28年は私が生まれた年で、幼いころ「らい病は感染する怖い病気」と教えられた。

身体に欠損や変形が生じたりすることから、偏見が広がった。

その後アメリカで「プロミン」薬が開発され、その有効性が確率されると、ハンセン病は完全に治る病気になった。

だが、一度広がった差別や偏見は収まらなかった。

 

「らい予防法」は1996年に廃止され、ハンセン病国家賠償請求訴訟勝訴を経て、冒頭に書いたように、小泉政権の2001年国が控訴を止めて結審し、国家賠償請求が認められた。

 

ドリアン助川の小説「あん」に、「舌読」という言葉が出てくる。

主人公がハンセン氏病記念館を訪ねた時のことだ。

 

<ハンセン病を重く患った結果、視力も末端神経も奪われてしまった一人の老患者の写真だった。指先が麻痺しているため、彼は本を開いても点字の凹凸を感じられない。だから展示を舌で舐めていた。舌先で文字をひとつずつ追い、そうやって読書をしていた。たとえばその写真が… 背筋を伸ばした老人が本を舐めているその姿が千太郎(どら焼き屋の店長)の頭から離れないのだ。>

 

 

ハンセン病患者の人生は壮絶だ。

突然隔離され、外の世界と遮断される生活を強いられる。

幼い時に隔離され、施設で暮らす徳江が手紙に書く。

<この場所での歳月が過ぎていくなかで、私には見えてくるものがありました。それはなにをどれだけ失おうと、どんなにひどい扱いを受けようと、私たちが人間であるという事実でした。たとえ四肢を失ったとしても、この病気は死病ではないので、だから生きていくしかありません。闇の底でもがき続けるような勝ち目のない闘いのなかで、私たちは人間であることただこの一点にしがみつき、誇りを持とうとしたのです。>

 

そして、

<本当に神様がいるなら、つかまえてなぐってやりたいことがたくさんあったもの。>と、綴る。

 

人と接したい、語りたい、役に立ちたいと感じながら、それが叶わない人生とは。

「生きる意味」を問いかける。

 

作家中村京子があとがきで書いている。

<人は、どんな人でも、他人の役に立たなくても生まれてくる意味がある。

「その子なりの感じ方で空や風や言葉をとらえるため」に人は生まれる。

というよりも、「その子が感じた世界は、そこに生まれる」のだと。>

 

河瀬直美監督の「あん」も人に薦めたい映画だ。

author:金ブン, category:読書, 11:13
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図書館で本を借りる

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「車で、図書館まで送ってくれないか」

嫁さんに頼むのに、戸惑いはあった。

だが、仕方が無かった。

 

右膝の内視鏡手術から2週間が経過した。

当初私は1,2週間もすれば、自転車には乗れるようになるだろうと思っていた。

それは全く私の勘違いだった。

手術前に、医者の説明を注意深く聞いていなかった。

日帰りの手術なので、簡単だと思い込んでいた。

 

1週間後の抜糸する時も、膝はかなり腫れていた。

でも、医者は「術後は順調ですね」という。

「まだ、腫れているのですが、いつ頃腫れが引くのでしょうか」と、私は尋ねた。

すると、医者は「人にもよりますが、完全に引くのに2,3ヵ月は掛かります」と、平然と応える。

術後の説明書を見直すと、歩けるようになるのには2,3月掛かると書いてある。

手術を軽く考えて過ぎていた。

 

1週間後に抜糸した後も腫れは引かず、松葉杖に頼りながらソロリソロリと歩く状態だった。

文化財ボランティアの用事や英会話教室をすべて欠席して、自宅で療養していた。

ほとんど出歩くことは無かった。

 

そんな折、図書館からメールが届く。

予約していた本が入ったとのこと。

今回は伊丹市ではなく、隣の宝塚市の図書館に申し込んでいた。

その本が伊丹市には置いていなかったから。

例の「夫のちん…」だ。

意外に早く順番が回ってきた。

ところが、歩けないし自転車にも乗れない状態だ。

 

読む気は満々だが、受け取りに行けない。

借りる時の恥ずかしさもあってか、気持ちが引けてきた。

受付は大概年配の女性だし…。

ひょっとして受付が知り合いの女性だったらどうしようとか、顔見知りの人が偶然図書館に借りに来ていて声を掛けられたらどうしようとか…。

まるで、ツタヤでHなビデオを借りるような気持ちになってしまった。

 

今回はキャンセルして再度予約すれば良いかと思い掛けていた時、再び図書館からメールが届いた。

以前に予約していた本が入ったとの知らせだった。

昨年芥川賞を受賞した「しんせかい」。

借りる本が2冊になったことで恥ずかしさが少し薄まるのではと、訳のわからない安堵感が背中を押していた。

 

「ちょっと、お願いがあるんやけど」と、嫁さんに図書館まで車で送ってもらうことを頼んだ。

返事は予想通りの「行ってきてあげようか」。

「いやいや、送ってくれるだけ良い」と慌てて返事をし、「図書館の前で待っててくれたら良い。松葉杖で歩く練習もしないといけないから」と付け加えた。

 

なんでこんな借りにくい題名を付けたのかと愚痴りたくなるのだが、この題名だからむしろ読む気になった訳で…。

そんな読者の気持ちを忖度してか、出版社の特設サイトには<お客様がタイトルを声に出して言わなくても書店さんに注文できる申込書>が付いてあった。

出版社のほうもこの題名にするかどうか迷ったんじゃないかとか、大手新聞社も広告を掲載する際に題名を表示するかどうか迷っただろうにと、再び私は余計な忖度したりして…。

 

借りてから、破った先月のカレンダーをブックカバーにして、丁寧に包んだ。

 

 

さっそく読み始め、一気に読み終えた。

 

アマゾンのレビューでは、評価が分かれている。

<共感できる>や<泣きました>と評価する人がいる反面、<内容はKUSO><最悪の本><シュレッダーに掛けた>とカライ評価が並んでいた。

 

宣伝文句に<衝撃の実話>とあるが、にわかに信じられない内容だ。

ツッコミどころは満載だ。

<入らない>のは夫だけで、他の男性とは<入る>という不思議な現実。

「専門の病院へ行けば良いではないか」とツッコミたくなるが、著者はあれこれと考え、躊躇し悩み続ける。

また、山を見て欲情し自慰に耽る、出会い系で知り合った山岳好きの男性にはマイッタ。(ほんとにそんな異常性癖があるのか)

 

そうはいっても、母親との確執、学生時代の孤独、教員生活での苦悩と精神疾患など、切々と綴られる文章を読み進むと、そんなツッコミなどどうでも良いことだと感じてくる。

確かに売らんがため題名が鼻を突くけれど、異常で悲痛な体験を是非とも世間に知ってもらいたかったと著者が言うなら、それはそれで許せるような気がする。

 

<入らない>の問題が物語の本筋ではない。

さまざまな苦悩と闘う人間の姿に共感する。

 

能書きを並べるより、是非読まれることを薦めたい。

ただ図書館で借りるにしろ書店で買うにしろ、ブックカバーを忘れずに!

author:金ブン, category:読書, 12:01
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逃亡者

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小学生の頃、「逃亡者」というテレビの人気番組があった。

 

妻殺害の身に覚えのない罪を着せられて死刑の判決を受けた医師が、列車事故で護送車から逃走し、アメリカ国内を逃げ回る内容だった。

執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら、真犯人と思われる片腕の男を追う。

毎週放送されたドラマはかなりの高視聴率だった。

私の家でも家族が茶の間に集まって観ていた。

その頃中学受験をするため塾に通っていたのだが、そこでも毎週このドラマの話題が上っていたのを思い出す。

 

小説を読み続けていると、ノンフィクションものが読みたくなってくる。

ネットで探していたら、7年前に日本中で話題になった事件の本を見つけた。

それは、2年7カ月の間、日本中を逃げ回った殺人者が書いた話だった。

 

2007年、英会話学校の講師で英国人のリンゼイ・アン・ホーカーさんが行方不明になっているとの相談を受け、千葉県警は知人の市橋達也のマンションへ向かう。

警察はマンションで市橋と鉢合わせするが、取り逃がしてしまう。

市橋が住むマンションのベランダに置かれた浴槽内部から被害者の遺体が発見される。

市橋は逃走後捜査員に発見されて捕まりかけるが、ここでも逃げ切る。

 

警察は捜査網を強化して容疑者を探すが、一向に見つからない。

マスコミも連日この逃走劇を伝え、容疑者逮捕までそんなに時間は掛からないだろうと思われていた。

公的懸賞金制度の適用を受けて100万円の懸賞金が付き、手配ポスターが配布された。

(のちに、懸賞金は1000万円に引き上げられた。)

被害者が英国人で加害者が日本人ということもあって、国際的にも話題となった。

被害者の家族が来日し、マスコミに登場して容疑者の男を早く捕まえてくれるように訴えた。

しかし、その後全く市橋の情報は入ってこなかった。

 

1年が経ち、2年が経つと、「もう、どこかで自殺しているのだろう」との噂も流れ始めていた。

2009年の11月、ついに大阪南港のフェリーターミナルで市橋は逮捕された。

 

市橋達也が書いた「逮捕されるまで」はちょっと変わった本だ。

通常、加害者が書いた本には自分の生い立ちや家族のこと、犯した罪への懺悔、被害者への思いなどが綴られているものだ。

ところが、この本は犯した事件や罪のことに一切触れられていない。

逃走した時から捕まるまでの、経路や生活を淡々と綴られているだけ。

申し訳程度に、感謝という気持ちを知ったとか、被害者への感情を思い出す場面があるが、

終始捕まりたくないと繰り返し、日本中を逃げ回る内容が並べられている。

 

この本が出版されたのはまだ公判が始まっていない時期だった。

2年7カ月の期間、逃亡者としてどのような生活を送っていたか、社会の関心は高かっただけに、本はかなり売れた。

裁判が始まる前に、印税は1000万円以上になったという。

市橋はその印税を遺族に渡したいと表明していたようだが、遺族側は受け取りを拒否し、結局国庫に入ったようだ。

 

殺人を犯した逃亡者を褒めるのはどうかと思うが、逃走への執念と動物的な感には驚かされる。

たとえば、逃走中、大型スーパーに入って焼き鳥を買い、それを路上で食べるのだが、歩道橋は誰も通らないだろうと、歩道橋の上で隠れて食べたと書いている。

確かに、横断歩道の上に作れられている歩道橋はほとんど人が通らないものだ。

また、防犯カメラに映ることにかなり神経を使い、コンビニやスーパーで行動は細心の注意を払っている。

 

逃走中、テレビで指名手配の犯罪者がどこにいるか推理する番組が放送される。

市橋はその番組を解体業の飯場などで見ている。

番組では超能力者という外国人の女性が出演し、「自殺で有名な東尋坊へ行った」と推理するのだが、市橋自身東尋坊に行ったことなどないと書いている。

また、他の番組では、「犯人は事件後、新宿歌舞伎町のゲイの町に行き、そこで男相手に身体を売って、お金を貰っていた」と説明し、「市橋を抱いた」と主張する男も出演させていた。

事実とは全く異なる放送を見て、市橋は憤慨したと書いている。

テレビがいかにいい加減な番組を放送していたかが解る。

 

市橋は千葉地方裁判所で無期懲役の判決を受け控訴するが、東京高裁で棄却され、無期懲役が確定している。

事件からかなり時間が経っているが、殺人者が書いた書物としては異色で興味深い。

 

 

また、この本は「I am ICHIHASHI 逮捕されるまで」という題名で、2013年に映画化されている。

この映画の監督をし主役の市橋を演じたのが、今人気のディーン・フジオカだ。

どんな映画か観てみたいが、現在ツタヤではレンタルされていないようだ。

残念。

 

 

author:金ブン, category:読書, 11:16
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私小説の醍醐味

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胸の奥底に仕舞っているものを吐きだす。

それを文章に書き、人前にさらけ出す。

なかなか、それは出来るものではない。

戸惑ってしまう。

こんなことまで書いていいのだろうかと。

やはり、自己表現の根底に、自分を良く見せたいという気持ちがある。

だから、自分を切り刻む時に身から出てくる悪臭を、ぶちまけるのに戸惑うのだ。

 

久しぶりに、西村賢太を読んだ。

「疒(やまいだれ)の歌」は初めての長編小説だ。

相変わらず、生々しい私小説だ。

 

中学を卒業して家を離れ、独り住まいを始め、造園会社でアルバイトして暮す日々が描かれている。

 

母親や姉への家庭内暴力、負の遺産(父親が性犯罪者)の呪縛、孤立した人間関係など、自身の体験を通じて、心の奥底に蓄積している泥のような感情を書きなぐっている。

そこには、卑屈な人間が放つような苦さは感じられず、むしろ、逞しさとしたたかさが感じられ、私は爽快な気分で読み終えた。

 

「こわれた人間は面白い」

ある番組で、タレントの大竹まことがゲスト出演の西村賢太を評していた。

まともな語り口なのだが、どことなく危なっかしい雰囲気が漂っている。

時折放つ、ぶっ飛んだ会話が視聴者に受けているようだ。

 

芥川賞受賞の会見で、記者から「受賞の瞬間、誰とどんなふうに」と訊かれ、「自宅で、そろそろ風俗でも行こうかと思っていた」と答え、衝撃的な個性を発散していた。

この会見後、特異なパーソナリティの持ち主として、マスコミ界で引っ張りダコになった。

大竹まことが言うように、「芥川賞受賞の恩恵を一番受けている作家」のようだ。

 

テレビのクイズ番組にも頻繁に出演しているが、こういう破天荒なキャラは、インタビュー番組や討論番組のほうに面白味がある。

 

https://www.youtube.com/watch?v=W27eyqcbC9E

 

自由奔放な語りはおとなの番組に打ってつけの味付けをしてくれる。

 

そもそも、私小説の醍醐味は、<よくぞ、そこまで書けるものだ>という露出度だ。

この長編小説でも如何なく発揮されている。

ちょっと、例を挙げると、

 

<そんな薄汚ない、所詮は膣口だけでなく、頭のネジの方も俄然緩みっぱなしの淫売女なぞを大金払って抱くよりかは、今現在は、脳中で佐由加をねちっこく犯しながら、己が怒漲したマラをしごき立てる方がはるかに興奮と快感を得られ、そしてそれでひとまずの満足も味わえる状況だったのである。>

 

造園会社に事務職として働いている佐由加に恋心を抱き、空想する場面だ。

 

<かの空想の中では佐由加のヴァギナは無臭であり、貫多は感極まって、彼女のその一片の糞臭さなきクリーンなアナルまでをも舐め上げるのである。すると小ぶりの桃みたいなお尻を微かに震わせ続ける彼女の方も、やがて、貫多に説き伏せられて、彼の亀頭の鈴口に、アグレッシブに舌先を這わせてくるのだった。>

(極端にエロい表現のところを引用させてもらった)

 

この小説の中で、「泥の文学碑」という小説を紹介している。

破滅的な人生を送り自殺した私小説作家、田中英光の過去を探ろうとする評論家の物語だが、その中に「作品から、作家の実生活を、ストレートに判断してはならない」という会話が出てくる。

私小説といえども、やはり小説(作り話)なのだという安心感が大胆な表現を可能にする。

 

平穏な生活を求める者には、日常生活で感じていることをありのままに表現することなんて、とても出来そうにない。

様々なしがらみの中で、摩擦を恐れてしまうから。

家族や友人は要らないし、結婚なんてしないという孤高の生き方を選んでいる人間が持つ特技なのだろう。

 

さて、愚妻が日常生活を私小説で書くとしたら、こんな風に書くのだろうか。

 

<頭頂部が禿げてみすぼらしく変貌した、ハズバンドと称するこの男は、薄汚れた雑巾のような風体を晒しながら、退職して有り余った時間を料理に浪費し、台所を占有するのである。時折、冷蔵庫の食材を取り上げては舐めるように注意書きを見定め、意地汚い視線を向けながら、「賞味期限が切れているじゃないか」と、慇懃な表情で戯言を抜かすのである。>

 

嗚呼、恐ろしい。

author:金ブン, category:読書, 17:13
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終わった人
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主人公の俺は東大を卒業し、大手銀行に入行した。
着々とキャリアを積み上げ、出世街道を駆けあがる。
しかし、突如子会社への出向を命じられる。
こんなはずじゃないと思いながらも役員として働き、やがて転籍となる。
そして、63歳で退職する。
 
退職すると、何もすることがない。
年寄りじみた生活に抵抗を覚えながらも、図書館やフィットネスジムに通ってみる。
しかし、そんな暮しに馴染めない。
職探しをしてみるが、現役時代に武器にしていた高学歴やりっぱな職歴が邪魔をする。
 


題名に惹かれて、内館牧子の「終わった人」を読んだ。
小説は<定年って生前葬だな。>で始まる。
 
これから、団塊の世代が次々と定年退職していく。
退職後をどのように暮していけば良いのか、多くの人が戸惑うのだろう。
会社に縛られていた時間が、自由な時間として与えられるのだ。
何をするにも、自らの意思で選択することが出来る。
束縛するものは何もない。(金銭面以外)
 
ところが、この自由を扱うのは案外難しい。
会社に束縛されているほうが楽なこともある。
生き方の選択肢をたくさん与えられると、返ってしんどいということだろう。
 
エリートの道を歩んできた主人公にとって、過去は栄光のように輝いている。
そんな思い出から抜け出すことが出来ない。
<思い出と戦っても勝てねンだよ>と、登場人物のひとりがいう。
 
主人公は東大法学部卒で大手銀行マンという、バリバリのエリートの設定となっている。
それゆえに、華やかな思い出から抜け出せないでいる。
まだまだ、社会で十分通用すると、自信をのぞかせる。
だが、「終わった人」なのだ。
 
私は退職して、9ヵ月が過ぎた。
63歳になった。
辞める時、若干の不安があった。
することが見つからず、退屈するのではないか、と。
だが、そんな心配は無かった。
何かしら、することがあった。
忙しいなんてことはないが、自分がしたいと思う事で、時間を埋めていく。
退屈さを感じることは全く無かった。
 
でも、好きなことをして過ごしてきたが、どこか物足りなさを感じる。
 
気楽な生活なのだが、ひとつ欠けていることがある。
誰かに必要とされているという気持ちだ。
自分がどこかで役立っているという思いだ。
今まで、それは職場の中にあった。
 
週に2,3日、働いてみようかな、と思い始めた。
 
そんな折、市の広報誌に、募集記事が載っていた。
貸館や講座をしている会館の受付事務の募集だった。
土日を含む週3日の勤務で、8時45分から17時30分まで。
ただし、募集人数は1名だけ。
応募する気になった。
 
履歴書送付と書いてあるので、パソコンで履歴書をダウンロードした。
40数年前に就職活動して以来、履歴書を書いた記憶がない。
 
学歴・職歴・資格に続いて、特技・趣味を書く。
自己PRを書くのに、一番時間がかかった。
 
総務の仕事をしていた時、たくさんの履歴書に目を通した。
採用までの第一関門だけに、行間に熱い思いがにじみ出ている。
自分がいかにこの会社に適しているかを切々と語る。
応募者にとっては、この自己PRが一番選別の要素だと考えるからだろう。
 
私も自分の長所を飾って書こうと、筆に力を入れる。
どんな人間を必要としているか、を考えてみる。
そして、その仕事がさも自分に適していると主張する。
 
自己PRを書きながら、ふと考える。
はたして、この募集広告は私のように定年退職した老人を対象にしているのだろうか。
会館の受付事務に、年老いたオジサンが適しているとも思えない。
やはり、ある程度社会経験のある女性が適任なんじゃないか。
本来、応募する側も、若い女性を求めているんだろう。
募集要項には男女別や年齢を掲載できないから、応募対象が幅広く見えるだけだろう。
 
それでも、一縷の望みに賭けて、履歴書を送ってみた。
 
案の定、1週間もしない内に、<厳正なる選考の結果、誠に残念ながらご希望に添いかねることとなりました>との結果通知が送られてきた。
 
自分はまだ、社会に十分通用するのではないか。
そんな幻想が頭の隅に残っている。
しかし、そんな世界では、もう「終わった人」なのだ。
 
小説の主人公は、社会に通用する自分を思い描く。
IT企業のオーナーとの出会いから、主人公の運命は思わぬ方向へ動き出す。
その結末は吉と出たか、凶と出たか。
(これから読む人のために、これ以上書かない。定年後の生活という暗いテーマだが、ストーリーの展開が変化に富んで、楽しく読めた。特に、ひとり娘の現実主義な言動が辛らつで、面白かった。)
 
小説のあとがきで著者は、ある国際学者が国家を論じた言葉を持ち出して、<重要なのは品格のある衰退だ>と語る。
一線を退いた人に対して、<衰え、弱くなることを受けとめる品格を持つこと>だと、忠告する。
 
「終わった人」は「始まった人」でもある。
新しい世界があるし、新しい出会いがある。
今は、経験したいと思えるものに、出来るだけ首を突っ込んでいる。
その内、私を必要とする誰かが現れると思いながら…。
(ただ、若いオネエチャンに必要とされることは無さそうだが)
author:金ブン, category:読書, 18:09
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