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コメント力

JUGEMテーマ:日記・一般

 

昼食の時、文化財ボランティアの会のメンバー数人と話していた。

話題は<メンバーたちがボランティアに参加している目的とは何だろう>とだった。

 

会の目的は地元の文化財を多くの人に知ってもらうことだが、そのための活動として主にガイドがある。

その他にも、文化財の清掃、文化財に関する紙芝居の公演、文化財に関する工作物作りを子供たちに指導する学習の手助けなどがある。

しかし、メンバーの中にはそういった活動をするより、単に文化財を学びたい、研究したいという人たちも少なからず参加している。

そういう人たちはガイドや清掃や紙芝居などに、興味がない。

そのため、それらの活動にメンバーが集まりにくくなっている。

また、会を運営する世話人も少なくなってくる。

高齢化が進むと、なおさらその傾向が強くなっていく。

 

そんな問題を数人のメンバーが話していた。

みんな思いつくことをまとまりなく話すので、議論は堂々巡りになる。

私は話に入ることが出来ず、黙って聞いていた。

少し沈黙する時間があった。

ひとり黙っている私は話さないといけないような強迫観念に襲われた。

「あの、でも、ん、年を取って分かったんですけど、なんか、人の役に立ちたいという気持ちが強くなるもんですよね」

私は議論とあまり関係が無い、具体性が伴わないことをボヤっと言った。

すると、みんながこの言葉に反応した。

「そう、そう、そういうことなのよね。やっぱり、なんか人にためになっているということは大事よ」と、年配の女性が言い、「そうね。誰かの役に立つことが生きる励みになるのよ」と、また別の女性が続いた。

その後、生きる目的とは何かについて、話は発展していった。

 

短い言葉で、いかに人の興味を引き出すか。

その時、コメント力の大切さを感じたものだった。

 

最近ワイドショーやニュース番組で、取り上げる話題に詳しい専門の知識人に交じって、弁護士、医師、スポーツアスリートなどがコメンテーターとして出演している。

お笑いタレントたちも多く出演している。

幅広い分野から意見を訊くのは望ましいことだと思う。

 

専門性を持った人はそれなりに知識を持ち合わせているので、受け答えも論理的で聞きやすい。

ところが、専門知識を持たない人たちのコメントでは、かなりコメント力に差が出る。

きらりと光るようなコメントをする人がいる反面、全く的を射ない発言をする人もいる。

長々と発言するのだが、全然視聴者の気持ちに届かないものがあったり…。

 

先月末の「朝まで生テレビ」は、トランプ大統領をどう評価するかがテーマだった。

最初、出演者たちがこれまでのトランプ大統領の政治について意見を述べた。

国際政治に詳しい論客たちの話を順番に聞いていたが、大半の論者は長々と話していて、どうも論点が解りにくかった。

その中で、一番解りやすかったのは竹中平蔵だった。

 

フランス人は意見を述べる時、「言う事は3点あります」と、問題点を3つにまとめて指摘すると何かの書物で読んだ記憶がある。

指摘する点が2点しか無い場合でも、まず「私の言いたいことは次の3点です」と言ったりするそうだ。

竹中平蔵の発言は「これには問題が3点あります」とか、「この問題の大事なポイントは…」とか最初に言い、要点を整理して簡潔に論じていた。

私のような頭の回転が悪いものにも、その意見は解りやすいものになった。

 

話はいかに短く簡潔にするかが大切なんだろう。

 

最近、マツコデラックスがバラエティや情報番組などに、頻繁にコメンテーターとして登場している。

下記のYOUTUBEの動画は「仕事について」を語り合っている番組だ。

その中で、マツコのコメントは光っている。

 

 

マツコのコメント力は独特の力強さを持っている。

それはこれまでの人生経験に裏打ちされているからなんだろう。

author:金ブン, category:日常の出来事, 09:51
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ディズニー・オン・アイス

JUGEMテーマ:日記・一般

 

1950年代から60年代、テレビで「ディズニーランド」という番組があった。

ディズニーのアニメだけでなく、冒険ドラマなども放映されていた。

番組の前後にウォルト・ディズニーが出演して、番組内容の解説をしていた。

その頃放送されていた「ポパイ」とともに、毎週、楽しみに観ていた。

 

母親が連れて行ってくれた映画もディズニーだった。

ウィーン合唱団を題材にした映画「美しき青きドナウ」を神戸の映画館で観たのを覚えている。

(この影響を受けて、一時学校の合唱団に入っていた)

 

それから、高校生の時に観た「メリー・ポピンズ」は衝撃的だった。

アニメと出演者が同時に踊る場面やジュリー・アンドリュースの歌に酔いしれた。

 

私の場合、ディズニーのキャラクターに魅せられた時期は短く、その後ちばてつや「ちかいの魔球」や桑田次郎の「エイトマン」などスポ根やSFものに興味が移ってしまったが…。

 

先週、娘と孫たちを連れて、ディズニー・オン・アイスを観に行った。

本来、妻が行くことになっていたが、義母(妻の母親)が肺炎で入院したため、急きょ私が随行を命じられたのだった。

 

この暑い中、大阪城ホールまで出かけるのはかなり憂鬱であった。

悪ガキの孫たちを連れて歩くのはほとほと疲れる。

おまけに、ディズニーのグッズ販売に連れて行かされて、高いグッズを買わされる。

それでも、「ジジィ、ジジィ」と懐いてこられると、自然と財布の紐が緩んでしまう。

 

娘は入場券を昨年のこの時期に買っていた。

おとなが5950円、子どもが4950円。

真夏に大阪でアイスショーを開催するのだから、高いのは仕方が無いと思うが、なかなかの値段だ。

ところが会場に着くと、高いのは入場券だけではなかった。

 

テントに並んでいるグッズの値段に驚く。

暑いので孫たちに氷を食べさせてやろうと思い、店に近づいて氷の値段を見ると一番安いので1200円だった。

キャラクターの容器によっては1900円や2100円のものもあった。

たかがかき氷が、である。

 

 

 

孫娘(Y菜)は必死で、店舗に飾られているグッズを探している。

娘も最初に買ってやったほうが大人しくなると、買ってやる心づもりだ

Y菜が欲しがったのは、光がくるくる回る電動のオモチャで、2300円だった。

Y菜は手にすると、急にご機嫌になり、はしゃいでいた。

 

 

開催初日とあって、会場は満員盛況だった。

観客はほとんどが子供連れの母親で、時折祖母らしきおばあさんが混じっていた。

成人した若者の含有率が低いと思ったが、二十歳を過ぎた女性も多かった。

私のようなお祖父さんは少なく、いわゆる女の世界だった。

 

ショーが始まると、ミッキー、ミニー、ドナルドダック、グーフィーなどキャラクターが次々と登場する。

アナ雪、ファイティングニモ、モアナなど、最近の映画のキャラクターも。

 

 

アイスショーだけに外気の気温との差が大きく、アリーナ席はひんやりして心地よかった。

始まってからすぐに、まぶたは急激に重たくなった。

Y菜は真剣な眼差しでアイスショーに見入っていたが、隣に座っている孫息子(S太)はあくびをして退屈そうだった。

やがてショーそっちのけで、1500円のポップコーンをしきりに食べていた。

 

これまでのキャラクターショーは写真撮影を禁止していることが多い。

だが、最近は全く逆だ。

写真や動画をどんどん撮影してSNSにアップすることを、主催者が勧めている。

インスタグラムにアップしているスマホ画面を見せると、粗品さえもらえる。

観客たちはスマホ片手に、写真や動画を撮影していた。

娘もインスタにアップして、終了後粗品を貰いに行っていた。

 

帰りの道すがら、S太は娘のスマホを借りて、ポケモンGOに熱中していた。

ツインタワー辺りに、レアなポケモンキャラクターが出るということだった。

S太にとって、ディズニーよりもポケモンのほうが楽しいのだ。

 

「来年は、S太のお守をしてやるから、Y菜とふたりで観に来たら…」

私は娘に告げるのだった。

男のS太にとって、ディズニーよりも川遊びや虫採りのほうが楽しいようだ。

 

とにかく、こういうイベントの付き添いは金が掛る。

ジジィは軽くなった財布を握り締めるのだった。

author:金ブン, category:日常の出来事, 10:21
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小さな人助け

JUGEMテーマ:日記・一般

 

今週整骨院に出かけた帰り、自転車の自損事故に遭遇した。

 

私は自転車で、真っすぐ伸びる歩道を走っていた。

200m程先に、自転車が転ぶのが見えた。

転んだ人は立ちあがること無く、倒れている。

歩道には人通りがあるが、誰も立ち止まる様子がない。

 

私の自転車が倒れている人に近づいて行く。

「痛い、痛い」と言いながら、男性が額を押さえてうずくまっている。

風体から、30代か40代ぐらいに見えた。

近くに自転車が倒れていて、その横に上新電機の買い物袋が落ちていた。

 

「大丈夫ですか」

私は自転車を止めて、男性に近づく。

額を押さえている手の間から血が滴り落ちている。

私はカバンからティッシュペーパーを出して、男性に渡す。

「ヒィーヒィー」と言いながら、男性はティッシュで血の付いた手や額を拭うが、すぐにティッシュは血で染まった。

舗装された歩道は滴り落ちる血で真っ赤に染まっている。

私はもう一つティッシュを取り出して、男性の額を押さえてあげた。

 

「救急車に電話しましょうか?」と私がいうと、か細い声で「自分で掛けますから」と、震える手でカバンからスマホを取り出して、119番していた。

意識ははっきりしている。

男性は電話に出たオペレーターに、自転車で転んだことを言い、居る場所を伝えていた。

 

その間、通行人たちが横目で見ながら通り、車道では多くの車が通り過ぎていく。

通行人たちは私と男性がぶつかったと思っているようだった。

私は男性のそばにしゃがんで、額を押さえてあげた。

ティッシュが真っ赤になっているので、カバンからゴミ袋を取り出し、赤く染まったティッシュを中に入れた。

そうしていると、通り過ぎようとしていたオバサンが自転車を止め、心配そうな表情で「大丈夫ですか」と声を掛ける。

「今、救急車を呼んでいますから」というと、オバサンはカバンからティッシュを取り出して、私に渡した。

「ありがとうございます」と礼を言い、ティッシュを受け取り、すぐにそのティッシュを使って男性の血を拭いた。

「どうも、すみません」と男性はか細い声で私に礼を言う。

男性の顔色は青ざめて、左目の眉毛の上あたりがぽっかりと切れていた。

「血はほとんど止まっていますし、もうすぐ、救急車が来ますからね」と、私は男性を慰めるように言った。

 

私たちの横を、学生、老人、親子連れが通り過ぎていく。

すると、さっきとは別のオバサンが「大丈夫ですか」と言って自転車を止め、心配そうな表情で、座っている男性を見る。

「もうすぐ、救急車が来ますから」と、再び私は男性を代弁して答える。

その人もバックからポケットティッシュを取り出して、私に手渡した。

私がお礼を言うと、オバサンは同情の表情を浮かべて、自転車に乗って立ち去った。

 

老若男女、通行人が通り過ぎていくが、声を掛けていくのはオバサンだけだった。

他の通行人は横目で見るのだが、すっと通り過ぎていく。

自転車が2台止まり、男性のひとりが血を流し、その男性を私が介護している風景はまさに自転車衝突事故の光景そのものだった。

私が加害者に見えていたのだろう。

 

やがて、遠くから救急車の警笛が聞こえてくる。

「救急車が来たようですよ」

私が男性に言うと、「ありがとうございます」と言って、男性は頭を下げた。

そして、スマホを取り出して、「お世話になりました。後でお礼をしたいので、お名前と電話番号を教えてください」と私に言った。

「いや、別に。気にしないでください」と返すと、男性は「是非、お願いします」と執拗に求め、スマホに文字を打とうと待っている。

仕方なく、私は名前と電話番号を言うと、震える指でスマホに打ちこんでいた。

 

救急車が歩道横に停車し、救護員がふたり降りてきた。

男性は名前と住所を告げ、自転車で転んで顔面を打ったことを伝えていた。

救護員が私の方を見るので、「私は通りすがりのものです」というと、「そうですか、それはありがとうございます」と、頭を下げた。

 

救護員は男性に「対応できる病院に連絡して、運びますので」と言うと、男性は「自転車も乗りますでしょうか」と訊く。

「それはダメです。救護するのは被害者だけですので」というと、「困ったな」と男性は戸惑っていた。

目の前には家族葬をする葬儀場があった。

「ここで預かってもらったら」と私が言うと、男性は少し考えていた。

「何なら、頼んでみましょうか」

私は親切心が増長して、余計な口出しをした。

すると、慌てて救護員のひとりが、「いやいや、私たちからお願いしてみます。こんな格好をしているほうが頼みやすいですから」と言った。

「確かにそうですね」と応え、私は自転車に乗って立ち去った。

 

最初、遠くで男性が倒れているのが見えた時、通行人の誰かが助けるのだろうと思っていた。

だが、私が近づくまで、誰も声さえ掛けなかった。

もしも他の通行人が声を掛けて介抱していたら、おそらく私は通り過ぎていただろう。

本来、私は面倒なことから遠ざかる人間なのだ。

 

大したことをしたわけではないが、ちょっぴり人助けをしたことで、気持ちが軽やかになっていた。

 

今週読んだ「定年後」という本に、昨年亡くなられた聖路加国際病院名誉院長だった日野原重明が小学生向けの命の授業で語った言葉が紹介されていた。

<命を誰かのために使いなさい>

この言葉が腑に落ちた。

 

命を使うほどの大袈裟なことではないけれど、ちょっとした行動で人の役に立つことは楽しいことだ。

やはり、適度なお節介は必要なのだ。

自転車を止めて、ポケットティッシュを手渡してくれたオバサンたちを見て、そう思った。

author:金ブン, category:人生, 10:00
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敗れても敗れても

JUGEMテーマ:ニュース

 

クソが付くほど暑い毎日だが、夏は野球が熱い。

今年は一度母校の試合を見ようと思っていたが、1回戦で負けてしまった。

母校が甲子園出場を果たしてくれたらと思うのだが…。

 

3年前、新聞のスポーツ欄を見て驚いた。

「東大野球部、連敗94で止まる」

東京六大学野球は春と秋のリーグ戦がある。

東大は2010年の秋から2015年の春まで、負け続けていた。

この記事を見ると、東京六大学に東大が参加していることが不思議だった。

 

他の私学と違って、東大は大きなハンディを背負っている。

入学するのが極めて難しいこと。

当然、私学のようなスポーツ推薦入学がない。

他の私学にはプロ野球に進むスラッガーたちが集まってくる。

 

なぜ、東大はそんな私学の野球部と同じグラウンドに立つのか。

 

門田隆将の「敗れても敗れても(東大野球部「百年」の奮戦)」を読めば、その答えがある。

六大学野球は昭和の初め、近所の大学が対抗戦をすることで始まった。

東大、慶應、法政、明治、立教、早稲田の六校だ。

最後に参加したのが東大だった。

最初は戦力が拮抗していた。

しかし、時代とともに私立校が強くなっていった。

東大は唯一の国立大学なので、受験に合格しないと入学出来ない。

いくら野球が上手でも、入試に合格しないと東大野球部に入れない。

 

関東には東都大学リーグというのもあるが、ここは4部制。

リーグ戦で負けると1部リーグから下の2部リーグに落ちる。

だが、東京六大学リーグではいくら負けても落ちることがない。

リーグが1部しかないからだ。

 

つまり、東京六大学野球リーグというのは<伝統>で成り立っているのだ。

弱いからといって、排除されることがない。

 

そうかといって、勝負への執念が欠けているわけではない。

東大は優勝を目指している。

だが、結果はいつも勝ち点さえ取れない有り様だ。

それでも練習で技術を磨き、勝つために必死なのだ。

 

著書の中で、部員だったOBのひとりが語っている。

「東大野球部の優勝は「夢」です。夢がたとえ実現しなくても、その夢にむかっていけばいいんじゃないかと思います。今シーズン優勝すると言ったら、それは、ただのバカです。“やがては優勝できるチームに向かって、われわれは進んで行く”というのと、“今シーズン優勝するというのは違うんですよ。私は、今シーズン優勝するとか、三位になるとか、ひと言も言ったことが無いんです。」

 

スポーツの真髄は頂点を目指していく過程にあると云える。

 

さて、プロ野球だが…。

 

今では全くと言って良いほど、野球のテレビ観戦をしなくなってしまった。

だが、新聞のスポーツ欄では阪神タイガースの試合結果は真っ先に確認してしまう。

大概、「また、負けとるな」と言って、新聞を閉じることになる。

 

30年前は阪神の勝ち負けに熱くなっていた。

 

阪神タイガースが優勝した1985年、関西は熱狂した。

長年の阪神ファンだった私も21年ぶりの優勝に酔いしれた。

日本シリーズでは西武に勝利し、球団史上初めての日本一にもなった。

 

私は小学校の時から阪神タイガースのファンだった。

住んでいたのが阪神沿線だったし、実家は「阪神パン」というパン屋をしていた。

パン職人たちはほとんどが阪神ファンだった。

実家の近くは阪神ファンの巣窟で、阪神が勝った翌日、近所の市場では必ず安売りをしていた。

 

ファンになったのは小学生のころ。

そのころ、阪神は2度優勝している。

1度目は小山と村山の投手が活躍し、打者は並木、後に監督で優勝する吉田、三宅等の選手がいた。

島倉千代子の旦那になった藤本や外人のソロムコなんて選手も活躍した。

2度目は東京オリンピックの年で、村山と外人のバッキーが活躍し、打者には小山とトレードされた山内というホームランバッターがいた。

 

阪神が2度目の優勝した翌年から、巨人は9連覇する。

阪神タイガースにとっては暗黒の9年間だった。

リーグ優勝に手が届きそうになるが、いつもコケテしまう。

でも私には、江夏と田淵が「黄金のバッテリー」と云われて活躍していた<その頃>が一番輝いていた。

甲子園で江夏が投げて、堀内から田淵がホームランを打った試合は今でもはっきりと覚えている。

「優勝する夢」にしがみ付いていた。

 

今ではあまり関心が無くなってしまったが、遠くに行ってしまった昔の恋人を時折思い出すように、新聞のスポーツ面を眺めている。

 

「敗れても敗れても(東大野球部「百年」の奮戦)」のあとがきで、著者門田隆将が書いている言葉が印象に残っている。

 

<目標がたとえ実現不可能であっても、それでも、この組織の「挑戦」は延々とつづくのである。理屈に合わないかもしれない目標に向かって、地を這うような努力をつづけている組織というのは数少ない。よくよく考えてみれば、いまの時代に、これほど不器用で、かつ、不合理な組織が、ほかにどれほどあるだろうか。>

 

東大野球部の胴上げを見てみたいものだ。

死ぬまでに、一度。

author:金ブン, category:スポーツ, 11:23
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記念館で涼む

JUGEMテーマ:日記・一般

 

今週はとにかく暑かった。

こんな時、涼めるところはスーパーマーケットだ。

近くのスーパーのフードコートは平日ガラガラ。

夏の昼間は本を持って、フードコートに出かける。

ところが、祝日となると、涼みの客が多数集う。

 

他に、涼しくて人が少ない場所は無いものか。

思い付いたのが、芦屋市にある「谷崎潤一郎記念館」。

暑い日には閑散とした美術館や記念館に限る。

美術や文学は清涼感を満たしてくれる。

 

 

以前から神戸に行く時、この近くを通っていて、一度行ってみたいと思っていた。

谷崎の小説は「痴人の愛」を読んだ記憶がある。

高校生の時だった。

スケベそうな小説なので読んでみたが、若輩者には大人びていて理解できなかったよう

だ。

(そこ頃、「痴人の愛」が映画化されて、安田道代が主演のナオミ役を演じていた。

中学生の時、安田道代と同姓同名の女生徒といて、かなり美人と評判だったので、余計に覚えている)

 

谷崎潤一郎といえば、高校生の現代国語の先生が谷崎の甥だった。

2年生か、3年生の授業で、教わったのを覚えている。

顔は谷崎潤一郎に良く似ていた。

伯父さんなのだから、当然なのだが。

 

 

谷崎は箱根で関東大震災に遭い、芦屋に移り住み、以後20年関西で居を構えている。

明治末期から昭和40年まで執筆活動を続け、近代日本文学の代表的な作家と評価されている。

3度の結婚をして、女性の題材にした妖しい耽美的な作品が有名だ。

人間嫌いだった谷崎は芥川龍之介と親交があったということで、9月まで「谷崎×芥川―人間的な、余りに人間的なー」という特別展示をしていた。

 

庭園は晩年住んでいた京都の「潺湲(せんかん)亭」を模したものだそうで、落ちついた佇まいだった。

何より見学者が少なかったのに、癒された。

(65歳以上は入場料が半額だったのにも、癒された)

 

残念ながら、わが町伊丹にはゆかりの文学者が少ない。

江戸時代の俳人上島鬼貫が伊丹の生まれなので、俳句の町として歴史がある。

駅前には「柿衞(かきもり)文庫」は俳句に関する収蔵品が数多く収められており、俳句を学ぶ人たちにとっては有名な施設だ。

 

小説家といえば、谷崎潤一郎と同年代の作家である梶井基次郎が伊丹に住んでいたことがあった。

昭和5年から約1年間、肺結核に罹った梶井は伊丹の千僧にあった兄の家で療養生活を送っていた。

昭和7年、31歳で亡くなっている。

文学碑が旧西国街道近くの公園の片隅に建っている。

 

 

碑には日記の一文が書かれている。

 

五月六日
庭にはイチハツが盛りを過ぎ、平戸がさきはじめ、
薔薇は日光の下にその新しい芽をうな垂れてゐる。
風は南西、よく伸びた南天の若葉をそよがせて、
部屋のなかへ吹き抜けて来る風を楽しんでゐると、
どこか気持ちのよい温泉へでも来てゐるやうな気がする。
かなめの垣がまた赤い芽を吹いている。

 

梶井基次郎の「檸檬」を読んだのは40年以上前だ。

読んだ印象は<奇妙な雰囲気>で、さっぱり理解できなかった。

最近再度読んでみたが、繊細過ぎて私には理解できなかった。

 

暑さが度を越して、小説を読む気分にならない今日この頃である。

author:金ブン, category:日常の出来事, 09:02
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